は12世紀に遡る優品であるが、熱田神宮の1面には額から鼻根にかけて細かい横鍛が「その形式には餘り大差がないが、強いて分類すれば募皮文勘<而も龍相の顕著な厳島型と、緻文多く相好の人間化してゐる熱田神宮型とがあるが、それは原型の相違と見るよりは、舞楽面が長い間に形式化していった一つの変化と見られる」ここで指摘されている「鍛文」の数や「相好」は、現存する各納曽利に当てはめ、その全体を二分することができるような、明確な基準と言えるだろうか。納曽利の形状を、多少の相違に触れずに概観すると、次のようになる(〔図3〕奈良・東大寺納曽利を参照)。まず全形は、両耳を含む顔面部である。両眼は半球形に見開き、鼻翼を膨らませて開口、上下の顎から牙が上出する。額、目尻などに徽を刻み、頭髪や口髭、顎髭を植毛する。眼球や下顎は、大方別材で作られる。額に緻を刻まない納曽利はなく、鼻先が反り返るか否かという差は見られるが、全体の表情には大差がない。納曽利は舞の形態上、対で作られるのが普通であるが、両者は大概全く同じ形式で作られる。ここで、納曽利の形式分類をするための基準として、第1に鼻根の瘤の有無、第2に額の徽の形を挙げようと思う。野間氏が例に出した2面は、いずれも納曽利の中で刻まれるのに対して、厳島神社の納曽利には左右に分かれた2つの瘤が刻まれる。これらは明らかに意匠の違いである。〔表3〕舞楽面遺品の形式年代対照表では、納曽利の欄において、①は鼻根に瘤のない作例([参考]奈良・春日大社納曽利を参照)、②はあるものを示した。熱田神宮は前者に、厳島神社は後者に含まれるが、その一方で、額の披が三山型を描く共通点がある。この三山型の徽は、原型の形式を残すものと考えられるだろう。時代が降ると額の跛は、眉丘の上の弧が広がってV字型を呈するものと、波打ちながら額を横切る一文字の徽とに分けられる。先に指摘した鼻根の瘤をここに組み合わせることで、納曽利の多様な形式が展開しているのである。このように見ると、納曽利の形式の変化は、野間氏の指摘されたとおり、「原型の相違」ではなく、時とともに変化した2方向の特徴であると考えられる。これは、先述の陵王面とは異なる状況といえる。なお、ある地域では阿昨の対に作られることがあり、〔表2〕では③として分類した。この点については後に再度触れたいと思う。他にも、納曽利と同様の分類の可能な面が幾種類かある。例えば貴徳は、瞳目の人面であり、納曽利のような極端な意匠化は見られないが、閉□して□角を下げるものと、わずかに開口して歯を見せるものとの2種類が見られる。両者とも現存最古の遺-437 -
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