品は12世紀に遡り、どちらが原型とも言い難い。形式の相違は口元以外に見られないことから、一方が他方から派生したとも考えられるだろう。二舞や抜頭についても、歯を見せるか否かといった部分的な異同に留まり、意味づけの違いを思わせる極端な変形は認められない。むしろ、時代や地域といった外界の変化に応じて、漸近線を描くように変化してきたものと思われる。以上の例に対して散手には、原型の相違を感じさせるような2形式が見られる。一方は貴徳とよく似た人面で耳前までの面部を表し、閉口で細面のもの、もう一方は両耳を含むエラの張った面貌で、わずかに開口して歯を見せるものである。遺品の数から言えば、前者が圧倒的に多い。〔図4〕東大寺散手はその一例で、承元元年(1207)、院賢の作である。後者は寿永3年(1184)の銘を持つ〔図5〕春日大社散手と、それを模刻したと考えられる江戸時代の作例数点に限られる(注16)。この状況は陵王の形式6とよく似ており、両者が共通の背景を持つとも考えられるが、現時点では指摘するに留めておく。ここまで見てきたように、陵王以外の舞楽面でも、部分の比較から形式上の相違を見出せるが、そこには原型の相違するものと、時代や地域などの周辺環境を要因とする変化と2つのパターンがあることが分かった。ところが、ほぼ同じ形式を踏襲するものも少なくない。その多くが、地久や退宿徳といった多人数の群舞の楽曲である。そこにどのような要因が働いているのか、次節で詳しく見ていきたいと思う。・時代の推移と形式の変化舞楽を舞の動きで分類すると、1人ないし2人で活発に舞い踊り「走物」と称される舞と、通常4人あるいは6人で優雅に舞う群舞、すなわち「平舞」と称される種類に分けられる。前節で取り上げた陵王、納曽利、散手、貴徳などの形式に変化の見られる面は、走物に使われるものがほとんどであった。これらと比較して、平舞に用いる面には、時代を通じて共通する形式を持つ例が少なからず見られる(注17)。そもそも、走物で用いる仮面と平舞の仮面とでは、遺品のあり方に違いが見られる。再び〔表2〕に戻ると、走物である陵王から採桑老までの9種類については、密度の差はあるが、時代を通じて制作されているのに対し、退宿徳より左側の平舞の面は、鎌倉時代初期までと近世との2期に、遺品が偏っていることがわかる。そして第2期の平舞の面が、大概第1期の作例に極めて類似することから、平舞の舞楽面の形式は鎌倉時代には定まっていたと考えられる。-438 -
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