鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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・地域的分布と形式の変化走物と平舞の仮面に見られる残存状況の違いは、地域的差という視点からも分析することができる。すなわち、走物の仮面が全国各地に散在するのに対し、平舞の仮面は奈良周辺、いわゆる中央の大規模な寺社に多く残されているのである。そこには、舞楽の最盛期と言われる当時の上濱体系も、強く影響していると思われる。舞楽は、宮中での公的な行事を彩る芸能として発達し、院政期に繁栄を迎える。そのころには、律令時代の機構であった雅楽寮に替わって、左右衛府が活動の中心となる楽所が台頭してきた。加えて、南都の大規模な寺杜もそれぞれ楽人を組織し、宮中での舞楽法要に参与するようになる。東大寺は、在銘最古である長久3年(1042)銘の平舞の仮面の一群を所持するが、そうした寺院の一つであり、南都楽所の一翼として宮中にも勤仕したという(注18)。つまり、平舞の仮面の半数近くが中央の大寺社に所蔵される平安後期の遺品である理由は、主に宮中で大規模な舞楽法要が盛んに行われるようなり、そこに使用する目的で一斉に仮面を制作したことにあるのではないか。また翻って、平舞のような演目が、中世以降地方に普及した舞楽には取り入れられなかったためであろう。先述した東大寺の一群が、地久や皇仁庭などの平舞に用いる仮面を主とし、一様に破綻のない整った作風を示すことも、上記の事情を考慮すれば首肯できる。平舞の仮面遺品の残る半数は、近抵に制作されたもので、政治的中心地に多く見られる。そしておそらくは、幕府などの主催する行事に携わる、まとまった数の舞楽面を所持するような寺社に集中している。先述のように、それらは平安時代後期の諸面と同形式で、写しともいえる作例が多くを占める。このような状況が、平舞の仮面に形式上の変化が少ない要因と思われる。ただし、近世以降の舞楽面の研究は、ほとんど進んでいないのが現状である。当時どのような条件の仮面が規範とされたのか、今後の課題として考えていきたい。次に地方の状況を見ていこう。例えば延喜5年(905)の『筑前国観世音寺資財帳』(注19)からは、地方の社寺にも楽具が納められていることが読み取れる。また、平安時代後期にはすでに、大内楽所の楽人が地方に下向していたことを示す史料がある(注20)。これらの例を見ると、宮中が中心となって地方へ舞楽を広めている様子がうかがえる。ここで注目されるのが、鎌倉に根拠をおいたばかりの幕府が、放生会をはじめとする年中行事を欠かさず開催していること、さらに建久4年には鶴岡八幡宮に舞楽殿を建設して、それまで伊豆から招聘していた舞童子をご家人の子息から選抜できるようにすることである(注21)。当時、舞楽を上演できる環境を整えることが権-439 -

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