(1178)の修理銘を持つこれらの仮面自体は、厳島神社面とほぼ同時代のものとして、た13世紀から、地方作の舞楽面が急速に増加することから、舞楽の地方伝播もこの頃力者にとって重要であったことが理解される。上谷恵氏は、鎌倉時代前期から寺院を中心とする新たな舞楽の広がりが見られるとしており、舞楽の伝播がこの時期、一気に進んでいったことを示唆している(注22)。現存遺品に視点を戻す。近畿地方の圏外に伝来した舞楽面といえば、まず厳島神社の諸面がある。しかし、承安3年(1173)の年記を持つ□舞などには「盛国朝臣」の名が記され、平季衡の息子で平家納経の結縁者でもある左衛門少尉平盛国が、制作に関与したことが明らかである(注23)。この頃平家はまさに隆盛を極めており、厳島神社は一族の崇敬を集めていた。ここには、当時の中央における最先端の文物と同等のものが流入していたであろう。さらに、同地の陵王は、奈良時代の遺品である藤田美術館所蔵の陵王に酷似し、当時における一つの古典形式を継承していると考えられる。したがって、厳島神社の舞楽面を地方作と考えるべきではない。次いで、神奈川県・鶴岡八幡宮に伝わる一群が鎌倉時代初頭に遡る。しかし先述した通り、まさに鎌倉が新たな政治的中心地となるときに制作されたものであって地方作とは言えず、新形式の陵王はその気風を象徴する遺品といえる。これらと様相を異にするのが、愛知県・熟田神宮に伝わる舞楽面である。治承2年それに劣らぬ高い技術水準を感じさせるものだ。また熟田神宮の陵王は、若干の省略が見られるものの、厳島神社陵王の形式をほぼ受け継いでいる。特異な点は、承元5年(1211)銘の愛知県・真清田神社をはじめ、さらに東北地方の諸寺杜にまで至る各地に、熱田神宮の諸面と共通の形式の作例が見られることである(注24)。興味深いことに、これらの社寺は、大阪の四天王寺系統の楽人を舞楽伝承の媒体者とする史料を共有し、その上同形式の陵王面を所持する例を数多く含む。舞楽面の制作者については、銘文などに仏師の名が記される場合があるが、芸能の伝承者との関連を論じることはあまりなかった。熱田神宮をはじめとする諸社寺の場合は、芸能と仮面制作とが同時に、総体として伝播していると考えられる。すなわち、その地方独自の伝承軌道がここに生じたと見て良いのではないだろうか。一方、真清田神社の諸面が作られ本格化したと考えられる。なお、数種類の仮面で、同時に、細部にわたって類似する例が見出せる特定の地域がある。先述の熱田神宮と真清田神社、同じく愛知県の知立神社、岐阜県の桜堂薬師区など、東海地方の各所に伝わる舞楽面がその一例である。陵王の形式には若干の相違があるが、還城楽の頬の、輪状の細かい緞を刻む独特の表現や、貴徳の口を薄く開-440 -
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