⑭ フランシス・ベーコン(1909-1992)におけるネオ・ロマンティシズム受容について研究者:東京国立近代美術館研究員保坂健口朗「おおまかに言って、ウォーホルの主題は良い。彼は、主題の選び方をよく知っている。でも問題は、実のところ彼のやっていることが、リアリズム、そう、単純なリアリズムである点だ」(注1)。画家フランシス・ベーコン(1909-1992)は逝去する数ヶ月前に、アンデイ・ウォーホルをこのように批判している。〈電気椅子》の陰鬱な雰囲気を想起すると、「単純なリアリズム」と批判する根拠はいささか不明瞭に思える。ベーコンに同時代への積極的言及がほとんどなかった事実を差し引いてみたとしてもだ。しかし、両者ともに現実世界に主題を求めていた以上、ここで単にリアリズムが否定されているはずもない。ベーコンは、選択した主題(内容)を適切な様式(形式)に連関づけることのできなかった、創造的想像力としての「図式」の機能不全を批判すると同時に、「単純ではないリアリズム」の可能性を示唆しているのではないか。ベーコンのこの言葉を20世紀芸術批評として見るならば、少し特異であることに気づく。というのも、20世紀の造形表現は前世紀までとはおよそ異なる規範に基づいており、それゆえ批評も価値判断を含意する造形概念に準拠することがほとんどであるのに、ここでは主題と様式という旧来の枠組みで語られているからだ。価値づけが求められる批評において、抽象、コラージュ、アクション、偶然性、引用といった「モダン」の造形概念を用いずに記述するのは不可能に等しい。閉塞的言説をもたらすであろうこの制約に対して「新しい美術史学」が、「モダン」と同義の価値観の専制を批判しつつほかの様々な基準を呈示したけれども、抑圧されていた作品と記述の復権に侍するあまり、作品をそうたらしめているところの作家の想像力、あるいは「図式」についての再評価をもたらすことがほとんどなかったのは周知の事実である。もっとも、作家自身においても「モダン」の否定が困難だったのは、人物像を描き続け、抽象絵画を装飾的だと否定したベーコンにおいてすら、制作方法における偶然性の介入や即興性を強調するために、ドローイングの存在を否定し、「モダン」であろうとしたことに明らかである(注2)。しかしそれでもベーコンは、想像力としての「図式」を重視しで憚らなかった。モダンな造形概念よりも、本来的に身体的である想像力を基軸とするのであれば、ベーコンにおける「単純でないリアリズム」は、時代や環境からの影響ではなく、そ0.創造的想像力としての「図式」-458 -
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