鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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J.M.Wターナー(1775-1851)、そしてサミュエル・パーマー(1805-1881)による、2.画業の端緒とネオ・ロマンティシズム—批評の立場からな名称でしかない。だがイギリスの場合、ウィリアム・ブレイク(1757-1827)、イギリス固有と目される地方の風景の彼岸的表象を想像力の源泉とする点で共通している。ただ、サザーランドにおけるパーマーのようにほとんど見分けがつかない例があるほど、前世紀の想像力は無批判に受け継がれたのである〔図1、2〕。ネオ・ロマンティシズムが一時期主流となった背景には、島国イギリスの事情がある。1929年世界恐慌により金本位体制が崩壊したのを受け、イギリスは国力が壊滅した。基盤を失った島国が自国のアイデンテイティを求めた時、彼岸的な志向を持ちながら、伝統的な文学に想像的源泉があり、現実的な、しかし地方のナイーヴな風景に根ざすロマン主義の、あるいはネオ・ロマンティシズムの特性が好まれたのは道理であった。無意識の発見に基づく芸術運動であるシュルレアリスムが、イギリスではハーバート・リードなど影響力のある批評家に主導されるかたちで、自国の19世紀における、主として文学の伝統と接続しうる思潮として理解されつつネオ・ロマンティシズムと結びつけられていったそのねじれに、島国的精神の危機的な状況を見出してもかまわないだろう(注6)。ともあれ世界大戦間と戦後のナショナリズムの興隆の中で積極的役割を果たしたネオ・ロマンティシズムは、「モダン」こそを評価する批評の中では無視されることになる。徹底的な等閑視により、「先駆的な30年代と、今日の芸術家たちと動向が形作られた50年代に挟まれた、イギリス美術の暗黒の10年間」(アラン・ボウネス)とする認識すら生まれた(注7)。その再評価は、「新しい美術史学」の登場、そしてグローバリズムヘの反動としてナショナリティが脱構築的に解釈されるという契機を待たなければならなかったのである。ネオ・ロマンティシズムのこうした変遷をふまえた上で「ベーコンにおけるネオ・ロマンティシズムの受容」を論じようとするならば、それは、90年代におけるネオ・ロマンティシズムの再評価も視野にいれながら、①ネオ・ロマンティシズムがいかにベーコンを受容したかを確認し、その上で②ベーコンが画業の端緒においていかにネオ・ロマンティシズムを受容したか、そして③評価を確立したベーコンが、「モダン」の価値観が主流を占める中で、自らの作品におけるネオ・ロマンティシズム性をいかに受容(あるいは捨象)したか、の3点においてなされなければならない。ベーコン研究はネオ・ロマンティシズムを、曖昧に布置するだけでなく、むしろ否-460 -

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