鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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定的に扱ってきた。網羅的記述が期待される伝記を見渡してみても、アンドリュー・シンクレアはベーコンにおけるネオ・ロマンティシズムの影響を否定している。またマイケル・ペッピアットは1929年の作品〔図3〕に、第一次世界大戦後しばらくの間イギリスの美術界を特徴づけていた荒廃した雰囲気を認めることができるとはするものの「ネオ・ロマンティシズム」の語を用いていないが、同時期のポール・ナッシュの作品〔図4〕と類似点が少なくないことを考えると、不自然ですらある(注8)。しかし伝記的叙述から名称を抹消できるほど、ことは単純ではない。両業を始めて間もない30年代のベーコンは、パトロンでもあった、雑誌『Horizon』の発行者エリック・ホールを通じて上流階級や知識階級との交流を深め、その後の作品を特徴づけるギリシャ悲劇など文学作品への嗜好や、ボヘミアン的な生活スタイルを育んでいた(注9)。交流の中にいたサザーランド、ナッシュ、パイパー、ミントンたちは、ベーコンにとって技術上の師であると同時に精神的な父でもあったロイ・ド・メストル(1894-1968)のもとに集まっていた。ベーコン自身が画業の端緒に位置づけようとす点で30年代の交流の成果とも言えるが(注10)、この作品はムーアやサザーランドなどと一緒に発表されている。またこの頃から、パリでのアトリエを共有するなど、サザーランドとの密接な関係が始まっており、その親密さは、レンブラントやバルテュスを見た感動を率直に伝える手紙にもうかがえよう(注11)。1946年2月ルフェーヴル・ギャラリーにおけるグループ展のメンバーは、ベン・ニコルソン(1894-1982)、サザーランド、ベーコン、コフーン、クラクストン、ルシアン・フロイド(1922-)、マクブライド、ジュリアン・トレヴェリアン(1910-1988)となっており、「ネオ・ロマンティシズム」展と言っても良い顔ぶれであったし、批評も当然その文脈に従い、たとえばエアトンはベーコンを期待すべきネオ・ロマンティシズムの新人と評している(注12)。シルヴェスターとの対談がBBCで放映される1963年まで、ベーコン自身の発言について知る機会はほとんどなく、それゆえ批評が必然的にネオ・ロマンティシズムに引き寄せられていたことを考慮に入れても、充分な検証もなく両者の関係を否定できないのは明らかである(注13)。だが、たとえ関係が指摘されたとしても、表層的な扱いであった感は否めない。たとえば「イギリスの絵画における新しいロマン主義」と題した論考の中でケネス・クラークは、ナッシュ、サザーランド、パイパーに継ぐ重要な作家としてベーコンに言及しているが、挿図に1946年の《絵画》〔図6〕を選ぶものの画面分析は全くせずに、る1944年の〈傑刑図の基部にいる人物像のための三習作》〔図5、以下〈傑刑図1944》と略記〕は、アイスキュロスの『エウメニデス』に想像力的源泉を持つという-461 -

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