1944》〔図5〕のような40年代のベーコンを先取りする作品であったにも関わらず、描いた1933年でもなく、1944年に位置づけようとしていたのだろう。シンプルな絵画形式を持つ《傑刑図1944》〔図5〕は、一見「多層Jとは程遠いけれど、ネオ・ロマンティシズムと同様、言語芸術である文学作品と親和的である点において、作品内容の多層化に向けての萌芽を指摘できる。そして、《車のある風景》〔図8〕が示すように、それから2年後の1946年頃にはすでに、彼岸と此岸の組み合わせにより作品内容を多層化させる「図式」が確立している。その時ネオ・ロマンティシズムは、いくつかのモティーフの源泉になると同時に、絵画と言語芸術との親和性、そして彼岸と此岸の併存可能性を示す想像力として機能したと考えられる。しかし、1950年代半ば以降、分析的な美術批評がイギリスに登場しても、ベーコンの作品を単一的に解釈する態勢にほとんど変化はなかった。むろん原因は、批評家の側にのみあるのではない。たとえば《絵画》〔図6〕は、「鳥を描いていたら、突如それが傘に変わって、作品が生まれた」(注17)というベーコン自身の発言により、傘というモティーフやチャンス・イメージというイメージ生成の論理から、シュルレアリスム的、あるいは偶然性が介在するモダンな作品と評価されてきたのである。自らの作品をモダン・ムーヴメントからそう遠くないところに布置しようとするベーコンの戦略的発言こそ、単一的な解釈を招いた最大の要因といってよい。この戦略を補強したのが、友人でもあった批評家シルヴェスターである。ベーコンの評価におけるシルヴェスターの役割についての批判的検証はまだはじまったばかりであるが、1950年半ばには、マッソン、クレー、ジャコメッティといった作家との連続性を指摘するかたちでおこなわれていた作品評価が、やがてジャコメッティとの対照にのみ収紋していったことに、ある恣意性を見いだしてもかまわないだろう。ハイマンも指摘するように、例えばマッソンの〈グラデイーヴァ》〔図15〕が《傑刑図なぜか無視されてきたのである。モティーフの源泉は、あくまでも対談における発言に基づき、デイナール時代のピカソにのみ求められてきた。アトリエから発見された資料が示すように、実際には、ムンクやシーレなど、近接する時代の作品を参照していたにも関わらず彼らへの言及はほとんどなく、ヴェラスケスやレンブラントなど歴史的巨匠を参照したとする発言がほとんどである(注18)。そこには、自らの作品が解釈される文脈の形成に、自ら参加しようとする戦略があった。この姿勢が遡及されて、「図式」を確立する契機となったネオ・ロマンティシズムヘの言及は、その没落とともに封印されたと考えても、あながち間違いではないだろう。画業の端緒においてネオ・ロマンティシズムを受容したことは、絵画を、単純では-464 -
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