鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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④ 江戸時代後期の京焼における陶芸技法の承継青木木米の「陶法手録」を中心に一研究者:横浜美術館学芸部学芸課長二階堂充はじめに江戸時代後期の京焼は、奥田頴川、仁阿弥道八、永楽保全ら名だたる陶工の輩出もあって活況を呈していたが、なかでも青木木米(1767-1833)は、その卓越した陶技と横溢する文人趣味によって識字陶エと謳われ、手がけるところも、赤絵、染付、青磁、交趾手、あるいは唐津や織部、乾山といった和物の写しにも及ぶなど、その幅広さには他の追随を許さぬものがあった。しかしながら、多岐にわたるこうした木米の陶技も、その技術的な詳細については、資料的な制約もあって不明な部分も少なくないと言うのが実状であった。ところが、近年になって、木米自らの筆録にかかる陶法冊子(横浜市歴史博物館蔵)が見出され、木米陶技の一斑を具体的に窺うことが可能となった。それゆえ、本稿では、その陶法冊子に見える木米の陶技についていくつかの検討を加えるとともに、それらが仁清・乾山以来の京焼技法、あるいは同時代のそれとどのような関係にあったかについても触れてみることにしたい。木米の「陶法手録」木米の「陶法手録」については、既に拙稿においてそれを報告し、併せてその全容を図版によって紹介したところであったが(注1)、論を進める前に、改めてその概要を記してみよう。この陶法冊子は、木米が自身のために筆録した手控えとみられるもので、題餃などによる冊子名が与えられていないため、仮に「陶法手録」と呼んだものであった。その体裁は、唐本仕立て、袋綴じの冊子で、縦22.4X横12.3cm。表紙は焦茶色で、題餃はなく、表紙上部の左辺には「窯」「空焼彩紅雲色法」といった墨書が3行にわたって見えている。表紙の次には二つ折りの白紙l丁、その白紙から裏表紙までの間に同じく二つ折りの罫紙29丁半が綴じられているが、丁数が端数になるのは、この冊子において認められる袋綴じの切り離し部分3個所のうち、1個所で、切り離された半丁が失われているからである。また、この冊子には、罫紙1丁分を破り去った部分が5個所にわたって認められるので、その本来の丁数は、白紙1丁をも合わせた36丁であったものと推測される。-39-

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