•藤岡知夫氏宅(東京都文京区西片町)年(1896)7月帝国大学卒業、32年(1899)山口高等学校教授となるが、34年(1901)作太郎令孫。作太郎長男・由夫氏(1903-1976)の長男にあたる。藤岡作太郎宛書簡、旧蔵書の一部、および作太郎没後追悼の為に描かれた竹内栖鳳筆《雲雀図》等を所蔵。なお、(財)石川近代文学館所蔵『李花亭日記』『李花亭抄録』『李花亭蔵書目録』は、藤岡がどのように絵画史研究を進めていたかを知る特に重要な資料と思われるので、別に解題を付した〔資料1〕。『近世絵画史』執筆前夜一明治33年(1900)9月〜35年(1902)5月執筆経緯藤岡作太郎の著書『近世絵画史』は、明治36年(1903)6月に金港棠書籍株式会社(以下、金港堂)から出版された。藤両はその執筆時期を緒言で「江戸幕府時代は両三年前の稿にかかり、明治時代は本年一月に至りてこれを加ふ」としている。言葉通りに解釈すれば、江戸時代部分は明治33年(1900)から35年(1902)にかけて、明治時代は36年(1903)1月に執箪されたということになる。これは最初の官制美術史『稿本日本帝国美術略史」の編纂、出版時期と重なることもあって、藤岡の資料的背景をめぐる一部の美術史家の関心を呼んできた。今回の調査研究では、藤岡がこの言葉通りの時期に、しかし『稿本日本帝国美術略史』編纂事業とは別のルートで絵画史執筆を進めていったことが確認できた。その過程を見ていくことにしたい。金港堂と佐々政一藤岡作太郎の日記によれば、『近世絵画史』出版をめぐる直接的な動きは明治35年(1902) 1月30日にはじまる。「天気にて気候頗るのどかなり。午前佐々君来訪、絵画史のことにつき談あり」「佐々君」とは金港堂編輯者の佐々政ー(号・醒雪1872-1917)である。当時29歳で、藤岡にとっては東京帝国大学文科大学国文科の2年後輩にあたる。佐々は明治29-471 -
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