12月山口を辞して上京、金港堂に入社した(注2)。『近世絵画史』執筆の直接的なき年9月〜35年7月の2カ年だけである。日記の記載によると、藤岡は35年1■ 2月時っかけは、この時の佐々の依頼によるものだったと推測される。なお、佐々が初めて藤岡宅を訪問したのはこの少し前の1月18日で、これは佐々が主幹を務める雑誌『文芸界』の創刊号用の原稿依頼と思われる。藤岡は同年3月発行の同誌に「南画論」を寄稿した。絵画史執筆の手始めといったところだろうか。当時の金港堂の状況を簡単に見ておきたい。同社は明治8年(1875)10月の創業以来、一貫して小学校教科書出版を手がけて財をなしてきた。だが明治18年(1885)の検定制度導入以降、出版社間の競争が加熱。明治30年代半ばには大手教科書会社の寡占化が進むとともに教科書出版に関連した贈収賄事件が社会問題となりだす。批判を受けた金港堂主・原亮一郎は、明治34年(1901)4月頃より経営方針を変更し、小学校教科書からの撤退、一般図書類の出版強化、海外発展等を図るようになっていた(注3)。明治34年12月に横井時冬著『日本絵画史』を出版したばかりだった金港堂が立て続けに絵画史出版を企画したのは、以上のように藤岡の後輩・佐々政一の入社と、一般図書類の出版強化という社の方針転換の双方が関係したためと考えられる。なお、最初の執筆交渉は佐々が担当したが、以後の日記の来管記録によると図版掲載手続や校正等の実務については同社支配人の岩田遷太郎が担当したようである。東京帝国大学「徳川時代絵画史」講義金港堂から絵画史執筆を依頼された時点で、藤岡にはすぐにもこれを書き上げられるだけの蓄積があった。というのも、藤岡は明治33年(1900)9月に芳賀矢ーの後任として東京帝国大学文科大学国文科助教授となり、同校赴任以来、「平安朝文学史」と並んで「徳川時代絵画史」の講義を行っていたからだ(注4)。今回の調査では、この講義用稿本が『徳川時代絵画史稿』(和綴、全2冊)〔図1〕として石川近代文学館に現存することを確認した。全24章の題目は〔資料2〕の通りである。藤岡が「徳川時代絵画史」講義を行ったのは、明治33年9月〜34年7月および翌34点で終盤に近い「第廿一章歌川派と北斎派」の講義用稿本を作成している。また末尾の「第廿四章維新後画道の衰微」は、章立てのみで中身は全くの白紙であることから、この回の講義は実施されなかったと思われる。こうしたことから、藤岡は「第一章恨武以前の総説」から「第廿三章維新以前の西洋画」までを2カ年かけて順次講義したと考えるのが妥当だろう。-472 -
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