なお、聴講したのは東京帝国大学文科大学の国文科を中心とした学生・大学院生一例えば尾上八郎(号・柴舟1876-1957)、中川忠順(号・潜光1873-1928)ーと思われるがまだ明らかではない。『徳川時代絵画史稿』と『近世絵画史』藤岡の日記によれば、『近世絵画史」の執筆は明治35年(1902)5月30日より前述の講義稿本『徳川時代絵画史稿』を原稿用紙に書き写すかたちで始められた。5月26日にその年度の授業を全て終えた旨を記しているので、「第廿三章維新以前の西洋画]の講義を終了してから『近世絵画史』に着手したものと考えられる。『徳川時代絵画史稿』目次を、金港堂版『近世絵画史』初版目次〔資料3〕と比較してみると、例えば前者「探幽と養朴」が後者「狩野探幽Jに、「寛永前後の浮世絵」が「岩佐又兵衛」に、というように、両者の間には名称の修正や順序の入れ替え、分割もしくは統合が若干見られるものの、全体の構成はほぼ同じといってよい。藤岡は、出版を依頼される以前から絵画史の構成をほぼ完成させていたと考えられる。ただし、明治以降の絵画史については例外である。前述の通り、『徳川時代絵画史稿』の「第廿四章維新後画道の衰微」は章立てのみに終わっている。藤閣が緒言に記した通り、『近世絵画史』でこれに該当する「第五期内外融化」は、全く新たに資料収集をし、明治36年(1903)1月以降書かれたものだった。その過程については後に詳しく見ることにしたい。資料的背景一明治28年(1895)4月〜33年(1900)8月「徳川時代絵画史」講義以前の状況「徳川時代絵画史」講義の準備期間にあたる東京赴任以前の状況を見ていきたい。藤岡作太郎が、東京美術学校における岡倉覚三「日本美術史」講義(※藤岡は「東洋美術史」と記載)の筆記を借りて写していたことは広く知られており、同筆記を収録した『李花亭雑纂巻拾美術』〔図2〕は現在、石川近代文学館に所蔵される(注5)。この筆写の存在は同講義の半ば神話化された影響力の例証に引かれることが多いが、実際には藤岡がまだ学生時代の明治27年(1894)4、5月に写したもので(注6)、これだけが「徳川時代絵画史」講義に至る藤岡の研究を左右したとは考えにくい。藤両は同筆記のすぐ後ろに、黒川真頼講義筆記や『国華』掲載論文も数多く書写している。-473 -
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