治20年)等がある。1874. vol. 1 -2である。内容はエジプトから19世紀までの西洋美術通史で、ドイツ語藤岡は、明治27年7月東京帝国大学文科大学国文科を卒業後、5年5ヶ月を大阪と京都で送った。28年(1895)4月に大阪府第一中学校教員となり、同年10月に京都真宗大谷派第一中学校に赴任、30年(1897)9月から33年8月まで第三高等学校教授を務めている。この間の藤岡は、当然、宝物取調局(宮内省)や古社寺保存会(内務省)のような政府お墨付きの美術調査活動とは無縁だった。藤岡の美術史研究は、文献渉猟と抄録、実作品の観察によって極めて個人的に進められたといえる。ただしここには、大阪・京都でなくては得られなかった人的ネットワークが大きく関わっている。文献渉猟と抄録『李花亭蔵書目録』によると、藤岡の美術文献渉猟は、明治期に出版された概説的美術書から徐々に江戸期の版本・写本、漢籍へと広がっていった様子が窺える。この動きを支えたと思われる大阪・京都時代の古書陣との交友については後に詳しくふれたし‘oなお、藤岡が明治29年(1896)11月頃までに入手していた美術書としては、目録記載順に千早定朝編纂『倭の光」(明治28年)、小杉檻祁述『大日本美術史』(明治28年)、福地復ー著『美術年契』(明治24年)、『歴代画史彙伝』(光緒8年)、黒川真頼著『エ芸志料』(明治11年)、久保田米遷著『画法大意』(明治26年)、伊沢保治編『対山画譜』(明治12年序)、『本朝名エ墨蹟宝』(正保2年践)、内閣修史局編『史徴墨宝考証』(明また、和本と並行して翻訳日本美術書への目配りが行われている点が注目される。同じく29年11月頃には、『古事類苑(帝王之部)』(明治29年)と並んでアンデルソン著・末松謙澄訳増補『日本美術全書沿革門』(明治29年)を入手している。また、下って明治32年(1899)3月頃入手した牧野一平紺纂『日本之美術』(明治21年)がある。これは官報等に掲載されたE.F.フェノロサ、ドクトル・ワグネル、アーネスト・ハールトの演説翻訳をあわせて一冊としたもので、金沢の出版社・雲根堂から刊行されていた。さらに藤岡の蔵書には西洋美術史の洋書が残っている。特に藤岡が明治32年7月29日の明石旅行中の日記にわざわざ読み始めた日を記している「Iリュブケ」の美術史」の存在は注目すべきだろう。これは現在も石川県立図書館「李花亭文庫」に収蔵されるLubke,Wilhelm. History of Art. Translated by F.E. Bunnett. London: Smith, Elder, & Co., からの英訳第3版である。-474 -
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