36■37年(1903■1904)だから、当時はたやすく手に入る文献ではなかったのだろう。治32年12月末から丸1ヶ月かけて抄録した(注8)。また、入手困難な文献については借りて抄録を行っていた。日本絵画史の基礎文献である朝岡興禎著『古画備考』もそのひとつである。藤岡ははじめこれを古書罪から取り寄せたが、「三分の一ばかりの零本にて帝王武家などの初めの部のみ画家の本部はなくてつまらず」(明治32年3月9日付平出鰹二郎宛書簡)(注7)という結果に終わった。太田謹補増訂『古画備考』(全18冊)が弘文館から刊行されるのは後の明治このため藤岡は当時の京都帝国博物館館長・山高信離に依頼して同書を借り出し、明実作品の観察一方、藤岡は文献渉猟と並行して、展覧会・博覧会、各地の寺社名家をまわって実作品の観察を重ねた。『近世絵画史』には、臨場感あふれる作品描写がしばしば登場するが、それはこの時代に蓄積した経験から生まれたように思われる。藤岡と同郷の友人・松山米太郎(1870-1942)が詳しく述べているが、当時の京都で開かれる展覧会には、京都帝国博物館の特別陳列のほか、岡崎の美術展覧会、祇園・栂尾亭や木屋町・玄鶴楼で毎月のように開かれる書画骨董入札展覧会があった。そこで藤閻は以下のように手録と浄写を繰り返したという。「…いつも二寸角位な豆手帖を袂にして、落款印文より年号月日、事によれば其の図のスケッチまでも書き取る。…是でまた帰ると、流派別に綴ぢ分けた資料の一冊子中へ綺麗に謄写されるのである。」(注9)また藤岡は休暇の度に地方の寺社史跡へ足を伸ばしている。『李花亭抄録十=」後半部には、明治28年(1895)夏から31年(1898)8月5日の間に旅行した兵庫・奈良・和歌山・三重・香川・愛媛・広島の紀行随筆が収められている。ここで丁寧に綴られた絵画鑑賞記録は、後に「徳川時代絵画史」講義および『近世絵画史』に役立てられた。一例として、香川県金刀毘羅宮上段間張付の円山応挙筆《瀑布図》の描写を拾ってみたい。藤岡が最初に絵を見たときの実感が生かされていることが分かる。「冬のいでゆき(四国紀行)」(『李花亭抄録十二』141丁裏)明治30年12月29日:「…社務所内の襖絵は人目を驚かす上段の間床の瀑布壮絶快絶夏なほ寒かるべし」-475 -
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