鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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田中文求堂、大阪の鹿田松雲堂等があった。後に東京で浅倉屋・青山堂•田中文求堂鹿田静七(1846-1905)は大阪の古典籍専門青陣•松雲堂二代当主。号・古丼(こ「第十四章円山応挙」(『徳川時代絵画史稿ー」70丁表): 「…上段下段の張付山水皆応挙の画く処殊に上段の瀑布の墨画の如きは夏なほ寒きを覚ゆ」「第三期第五章円山応挙」(『近世絵画史』178頁): 「…殊に上段の瀑布の墨画は観者をして腋下に涼風を生ぜしむ。」人的ネットワークー古書陣との交友大阪・京都時代の藤岡の美術史研究は、上記のように個人的な文献渉猟と作品観察によって進められていったが、その過程には人的ネットワークが大きく関わっていた。藤岡独自の絵画史情報網というべきそのネットワークには、東京帝国大学や同郷の友人(及びその血縁)・地方の蒐集家・出版社・両エ・古書陣等が複雑に絡まりあっている。ここでは大阪・京都時代に飛躍的に広がった古書罪との交友に着目したい。藤岡が利用した古書律としては、金沢の池善・石井書房、京都の川勝・若林書房・等も利用した。このうち、藤岡の絵画史情報網にもっとも特色を添えているのが大阪の松雲堂・鹿田静七である。今日の美術史においてはほとんど知られていない人物なので、詳しく紹介しておきたい。たん)。松雲堂初代の父は播‘}|1揖保郡志方村出身で河内屋清七。貸本業を営んだのち、弘化元年(1844)古書籍業として独立開業した。本家・河内屋一党は大塩平八郎と親交があり、大塩が天保飢饉の窮民救済のため蔵書を売却して施米した際、これを奔走斡旋した逸話を持つ大坂書林の老舗である。静七は弘化3年(1846)10月1日大阪北久太郎町四丁目に生まれた。10歳頃より家業を手伝い、文久3年(1863)父の死後17歳で家督を相続。明治初期には新聞事業にも携わった。明治3年(1870)店は大阪東区安土町心斎橋通に移転し、明治23年(1890) 5月より松雲堂独自の古書販売目録『書籍月報』(明治42年2月『古典緊目』と改名)を発行するようになった。明治26年(1893)には安土町四丁目百三十七番地に間口五間・奥行二十五間の大店を構え、古典籍の蒐集販売に力を注いだ。蒐集網は四国九州にも及び、傍ら足利学校、住吉天満宮、慎福寺宝生院、北野天満宮など各地-476 -

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