鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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の貴重文庫を訪れて紹介文を『書籍月報』に掲載した。また大阪ゆかりの諸名家の顕彰を行い、明治34年(1901)春には田能村直入と協力して「蕪蔑棠百回忌」を開催、『兼段堂誌』を出版している。明治38年(1905)8月13日没。松雲堂の顧客には、大槻如電、富岡鉄斎.謙三父子、幸田成友、内田魯庵、徳富蘇峰、浜和助、水落露石、水谷不倒、渡辺霞亭、内藤湖南などがいた。なかでも大槻如電は明治11年(1878)以来の知友で「書目来たれば必註文し大阪行すれば毎に其店に上る古典珍本何なりとも購取る常客の一人」と自称した。また富岡鉄斎は『書籍月報』巻頭にしばしば戯画や題辞を寄せ、「鹿田古丼肖像」も残している(注10)。内藤湖南は明治30年代を回顧して「本あさりに多事なる時代を来し、面白き暗闘の其間に生ずることなどありて、すべて此の一群は松雲堂を中心として活動したりしなり」(注11)としている。当時の松雲堂は大阪文化人のサロンであり、同時に、目録を通じて全国に古書情報を発信する文化拠点だったといえる。さて、藤閻作太郎もこの鹿田松雲棠から恩恵を受けた一人だった。鹿田の農富な知識と蒐書力は、まだ活字化されていない絵画史文献の収集をバックアップしたと思われる。藤尚が最初に松雲堂を知った時期は明確でないが、日記および書簡から確認できる最も早い記述として明治32年3月9日付の平出鰹二郎宛書簡に「先日御尋申上候古画備考の義大阪の鹿田書店にありとの事にて試みに取よせ」(注12)とある。以後、旅行の折にふれ安土町の店にも立ち寄っている。なお、京都時代の藤岡は寺町の若林・川勝書房等の店頭で古書を買うことも多かったが、東京に移ってからは『書籍月報』で目録買いをする回数が増え、一度に10冊、20冊と買う量も激増した(注13)。だが書誌情報以上に絵画史情報網として特筆すべきは、鹿田自身が平賀源内筆《西洋婦人図》を所蔵し、室内に掲げていたことである(注14)。松雲堂でこれを見た藤岡は「徳川時代絵画史」講義で引用した(第廿三章)。後には鹿田本人からその写真を郵送してもらい(注15)、「評論日本油画の祖」(『文芸界』12号、明治36年1月)を執筆、平賀源内を司馬江漢以前の「近世油絵の祖」として紹介した。この写真は『近世絵画史』第29図にも使用され、〈西洋婦人図》が広く世に知られる端緒となった。鹿田から送られた写真は石川近代文学館に現存しており、裏面には磯谷久磨二撮影とある〔図3〕。また藤岡は鹿田から大阪周縁の画家についても情報提供を受けていた。藤岡は、大阪出身の森祖仙・岡田半江の作品や墓所所在に関して手紙で問いあわせ、鹿田はこれに対して非常に具体的な返答を与えていた(注16)。鹿田の返答は『近世絵画史』の同画家記述にそのまま反映されている。『近世絵画史」第20図として掲載された岡田-477 -

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