1876-1933)とも続き、藤岡は『書籍月報』72号(明治40年9月)に「徳川時代にお月8日印)は、大槻家所蔵「平賀源内ノ肖像油絵」(中丸精十郎筆、明治19年)の由半江筆「米黙山水」(大阪鈴木駅次所蔵)の写真も、鹿田経由で藤岡に提供されたものだった(注17)。なお藤岡と松雲堂の親交は、古丼の死後、三代・鹿田静七(伸四郎、号・余霞ける戯曲小説の出版書騨Jの一文を寄せている。『近世絵画史』執筆一明治35年(1902)5月〜36年(1903)6月次に、藤岡が実際に『近世絵画史』執筆に着手してからの様子を見ていきたい。前述の通り、『近世絵画史』の執筆は明治35年(1902)5月30日より『徳川時代絵画史稿』を書き写すかたちで進められたが、これ以降に新たに調査を開始した部分がある。「第四期第七章維新以前の洋風画」と明治絵画史にあたる「第五期内外融化」である。ここでは文献収集よりも聞き取り調査が中心となった。近世洋風画の調査藤岡は講義稿本「第廿三章維新以前の西洋画」において近世洋風画の画家について概略をまとめていたが、『近世絵両史』執筆にあたって、あらためて平賀源内・司馬江漢・亜欧堂田善の資料や談話を収集した。平賀源内および司馬江漢については、藤岡は大槻如電・文彦父子および吾妻健三郎から聞き取り調査を行った。石川近代文学館所蔵の藤岡宛大槻文彦書簡(明治35年6来について質問した藤岡への返答である。さらに7月28日には大槻如電を訪問し、平賀源内の歿年と経歴、司馬江漢の歿年と肖像画(吾妻健三郎蔵)についての情報を得た。この調査は前掲「日本油画の相J執筆にも生かされている。また、翌36年(1903)2月1日には東陽堂社主・吾妻健三郎を訪問し、吾妻が所蔵する司馬江漢肖像の掲載依頼と作品の閲覧を行った。また、亜欧堂田善については当時文献も少なく不明点が多かったため、藤岡自ら福島県須賀川で実地調査を敢行した。明治35年8月6、7日の日記〔図4〕には調査の様子がスケッチを交えて克明に記録されている。藤岡は柳沼嘉兵衛・内藤欣三郎・永田利平・永田佐吉・永田隣次郎・諸根文吉といった田善関係者や作品所蔵者を訪問し、現存作品・伝記・肖像等の調査を行った。その成果は『近世絵画史』に留まらず、「亜欧堂」(『國華』172号、明治37年10月)執筆にもつながっている。-478 -
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