鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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明治期絵画史の調査明治期の調査は同時代のことでもあり、関係者の訪問が頻繁である。『近世絵画史』緒言には「書中の事実につきては、浜尾新、小山正太郎等の諸氏の高教を辱うせしこと多し」とのみ記されているが、日記によれば、藤岡がこの明治期絵画史執筆のために特に訪問した「諸氏」としては、順に中丸精十郎・浅井忠・小山正太郎・浜尾新があげられる。中丸精十郎(口代)宅を訪問したのは明治35年7月4日である。これは中丸精十郎(初代)の伝記調査と、中丸家所蔵の宮川長春筆〈四季のあそび》の調査を兼ねていた。同作品は『近世絵画史』第15図に使用している。浅井忠訪問は同年9月1日で、日記には「浅井忠氏を上根岸にとひて近世油絵の事をきく午后一時頃帰る」とあるだけで詳しい内容は分からない。小山正太郎は3回訪問している。1回目は同年9月14日で、日記には「二時過より追分町九七番に小山正太郎氏を訪び油絵の事をきく」とだけある。なお、藤岡はこの後同年10月14日にA.フォンタネージの作品調査のため工科大学を訪れているので、フォンタネージ門下の浅井か小山から情報提供があったものと思われる。2回目の翌明治36年1月13日の訪問では、小山から『高橋由一履歴』及び『美術新報』2冊を借用し、さらに川上冬崖・奥原晴湖・高橋由ーについてかなり長い聞き取りを行った。H記には小山の談話筆記が記されている。3回目の同年2月21日は、川上冬崖伝記についての補足である。浜尾新の訪問は明治36年1月25日、「十時過、車にて浜尾氏を訪ひて明治美術の情況を談ず先生舟婁々数刻に渡るとくこと甚だ長く漸く退座す出づれば一時を過ぎたり」とある。なお、藤岡はかつて論考「画道における東京と京都」(『帝国文学』7ところで、藤岡が面会を希望していたものの遂に叶わなかった人物に、岡倉覚三(天心)がいる。明治36年1月21日、藤岡は岡倉を入谷に訪ねたが「既に谷中に引越せり」と会わずに終わった。続いて1月24日に谷中の日本美術院を訪ねたが、今度は「病気の由にて面会を得ずして帰りぬ」。結局、藤岡が岡倉に会えたのは『近世絵画史』出版後の同年7月28日、同書贈呈の時であり、この時も家には上がらず帰った。藤岡は明治期の絵画史執筆にあたって岡倉に何を聞こうとしていたのだろうか。その手掛かりとなる当時の草稿ノートが石川近代文学館に残っている(※無題。同館での分類上の仮題は『源氏・今鏡覚え書』)。そこには沢山の覚書に混じって次のような巻9号)執筆中の明治34年9月7日にも浜尾を訪問したことがある。-479 -

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