箇所がある。(/は改行。下線は原文ママ)「◎美術学校ヲ岡倉氏ノ辞セシハ洋画二関セシコトアリヤ、ソノ関係ヲトフ(皿倉氏ヲ訪フベシ)/タケノブオサノブ等ノコトモトフ/四天王の師のこと、西郷孤月の得意のところ」藤岡が岡倉に会えていたら、『近世絵画史』には美術学校騒動や明治期の狩野派の動向について何か別の事実が書かれていたかもしれない。『近世絵画史』執筆動機一むすびにかえて明治36年(1903)5月16日、藤岡は一日かけて緒言を書き上げた。翌17日の日記に「金港棠に至り緒言目次索引挿画等渡し了りこれにて近世絵画史の悉皆を了す」とある。最後に記されたこの緒言から、藤岡の『近世絵画史』執筆動機を考察してみたい。緒言には、上古から始める日本絵画史通史よりも近世絵画史を先に出版する理由が次のように記されている。「…邦人往々古に阿りて、近世の事物を軽んずれども、これを学ぶの感興は、却つて余輩に近きものに深きことを思へばなり。」石川近代文学館には、『近世絵画史』自筆原稿が残されている。今回同原稿の該当箇所を調査した結果、この最初の部分は当初「邦人往々古へに阿り今を卑て」(傍点引用者)であったことが確認された。藤岡は「今を卑」の3文字を墨の二重線で削除している。『稿本日本帝国美術略史』(農商務省明治34年)や当時の高山樗牛の著作が端的に示すように、大勢が尚古主義的な「日本美術史」構築へと邁進していた明治30年代において、藤岡はあえて軽んじられていた江戸期の絵画に着目し、さらに同時代である明治期の絵画の送巡をも史的に捉えた。もとの「邦人往々古へに阿り今を卑て」とすれば、藤岡の言おうとしたことはより明確になるように思われる。『近世絵画史』は、自らが生きる時代である「今」を卑しむ「日本美術史」への異議申し立てであり、また「今」の絵画一日本両と洋画双方ーを肯定しようとする藤岡の意志の表れであったといえるだろう。構成的にほぼ完成していた『徳川時代絵画史稿』に、近世洋風画と-480 -、、、、
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