5冊ほ10年、脇本十九郎が『平安名陶伝木米』において報告していたところであった(注2 西祥青花画釉(坪上塗白土方・白釉方〔紅毛銹〕•青花釉〔同〕・黄色釉璃釉•青色釉·苗金)A-1 西祥釉(青花色釉.睾釉分量・火候・窯・士口伝・黄釉)B 色窯青色釉、色窯青花釉、色窯填黒釉c 明炉五彩苗両釉方(緑色釉・黄色釉・紫色釉・黒色画墨釉・蓉紅色釉・瑠罫紙は木版刷りで、やや太い四周単辺の匡郭を廻らし、半丁が8行となるよう罫が置かれる。また、版心右半分の下部には「米家図書」なる4文字が刷られており、この罫紙が木米の自家用箋であることを知るのである。この「陶法手録」が木米自身の筆録にかかることは、その筆跡や自家用箋の使用などに照らして疑えないところであるが、木米にこうした手録のあることは、既に大正2)。脇本によれば、横浜の真葛•宮川香山家には木米のこうした手録が4、ど伝えられており、中の1本を実見した脇本は、その内容を詳しく紹介するとともに、その一部を図版としても掲げたのである。ここで、この「陶法手録」を脇本が掲出した図版に照らしてみると、両者が別本であることは明瞭であるが、脇本の披見した手録には木米の筆跡で「時丙寅」なる書き込みがあったという。脇本はこの「丙賓」年を文化3年(1806)と考えたが、「陶法手録」にも木米による「戊寅秋日」あるいは「甲申年五月試」なる書き込みがあるため、その筆録時期は上限が文政元年(戊寅、1818)、また、下限は文政7年(甲申、1824)から木米の没した天保4年(1833)までの間にあったものと推測される。但し、「戊寅秋日」という書き込みは、木米が往時の経験を記す個所に見えるものであるため、文政元年という上限はやや下げて考える必要があるだろう。「陶法手録」に見る木米の陶技この「陶法手録」に見える木米の陶技は多岐にわたるが、その記述には繁簡の差も大きく、また筆録時期の相違などもあって、そこに一貰した筆録意図を窺うことは難しい。いま、手録に見える主な項目によってその内容を整理してみると次のようになるだろう。〔同〕・補古釉〔焼接銹〕)3 乾山青花画釉D 赤絵釉(仁清・乾山)-40 -
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