鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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第89,1,邦訳はセネカ『自然研究』(全)茂手木元蔵訳東海大出版会P.400参部(B)では、‘世界の名声への凝視’が(A)における‘人間の営み’に対する虚栄もの国境というものは。(セネカ『道徳書簡』1巻,序説7,邦訳はセネカ『道徳書簡集』(全)茂手木元蔵訳,東海大出版会,P.5参照。)E:世界地図下部,右;宇宙全般の容貌がわれわれの眼界に現れるように、哲学の全体も同じようにわれわれの心に浮かぶことができれば幸いです。(セネカ『自然研究』照。)ミュラー=ホフシュテーデは、世界図上部に付されたテクストが、中心となるテクスト(A)の形式に習い、それを補完する形で現れることを指摘した。すなわち、右側(C)では(A)における‘全世界の永遠無窮さ’を‘観想’することが、左側上心の固執に対応する形で配されている。同様に引用テクストの構成を左右に分けて捉えるならば、上部左側では(B)における‘現世的名誉への凝視’が下部(D)の‘国の所有争い’に一致し、上部右側(C)の‘宇宙について思索すること'が、下部(E)の‘全哲学を求めて努力すること’に結び付けられている。つまりここでは、世界と人間の関係は2つの対極的な側面において識別され、最終的には右側の2つの引用テクスト(C,E)で示される‘自然に従って生きる’ストア派独特の自然観と賢知を持って全世界を把握する賢者との理想的な関係へと帰結しているのがわかる(注9)。ミュラー=ホフシュテーデ自身も認めているように、1569年に没したブリューゲルの作品と1579年に現れたオルテリウスの引用文との間の具体的影響関係を検証することは困難を要するが、一方で同様の自然観を分かち合うことにより産み出された両者の間の親和性については否定し得ないであろう。またオルテリウスがおそらくは教養ある彼の顧客がそれらのテクストをすでに知っていることを前提とし、各引用文の下に作者名のみを付していることからも、当時ストア派の自然観が広く行き渡っていたことが推察されよう。さらに『地球の舞台』初版(1570年)の世界図の前頁に置かれた説明文の中で挙げられたプリニウスの言葉(『博物誌』第2巻174節)に注目するならば、広大なる宇宙とその宇宙の点にすぎない世界という対照概念をオルテリウスが当初から持っていたことが明らかになる。実際オルテリウスが古銭学を通じて古典文化の所産に対する研究に主に専念していた1550年から60年という時期は、1551年にアントワープの聖ルカ組合に登録したブリューゲルが、イタリア旅行を経て、アントワープの版画商、ヒエロニムス・コックのために版画の下絵素描を多数制作した時期に符合している。-488 -

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