鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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2.ブリューゲル〈大風景画〉連作における主題選択と「世界風景」の伝統〈大風景画〉連作において、各版画には聖書のあるいは世俗的なテーマがタイトルとして因版下部余白に記されている。そしてその主題は、小人物を伴う前景の情景によって示唆されていた。オーバーフーバー(注15)は、〈大風景画〉連作の前景に登場する人物や動物の多くが、実際は発行主コックの手になるものとの見解を示した。またブリューゲルの他の作品にも見られる、頭を下げ、あるいは観る者から顔を背けた、無名化された姿で表された人物たちは、ブリューゲルが当初、特に付加テーマを意識していなかったことを裏付けている(注16)。下絵素描〔図lB〕の残る《エマオヘの道》〔図lA〕では素描においてすでに3人の人物が含まれているものの、版画では中央の人物の頭部を囲む光輪が付け加えられることで、〈三人の巡礼者》から《エマオヘの道》(ルカ伝第24章13-30節)へと主題が変化しているのが見られる。本連作の主題や人物モチーフについては、それらが付加された可能性を指摘した従来の見解により、これまであまり検討されてこなかったが、少なくとも、風景版画シリーズの意図や機能を探るという点においては注目に値する。12枚の版画のうち、聖なる主題を持つものは、《エマオヘの道》〔図lA〕《荒野の聖ヒエロニムス》〔図2〕《悔俊のマグダラのマリア》〔図3〕《エジプトヘの逃避》の4点である。そしてこの主題の選択は、明らかに「世界風景」の伝統を引くものであった。「世界風景」の創始者、パティニールの作品において、人物モチーフと画面構成との相関関係に注目したファルケンブルフ(注17)は、永遠の救済へと続く狭く険しい道と堕落へと通じる広くなだらかな道とによって構成された画面において、前者が聖なる人物の辿る道として暗示されるのに対し、後者は地上的なものや欲望に夢中なり、しばしば聖なる場面と反対方向に向かう副次的人物によって示されることを指摘した。人生における2つの正反対の道が示された象徴的表象としての風景は、観る者に選択の問題を喚起している。ブリューゲルの版画においては、地理的二分構成は必ずしも明らかではないが、《悔俊のマグダラのマリア》〔図3〕においては魂の選択の問題を見ることができる。画面右上の天空には、マグダラのマリアの被昇天の場面が挿入されているが、その斜め左下の斜面には道を辿る2人の人物の姿が描かれている〔図3B〕゜2人の行く手は少し先で二股に別れ、それぞれ十字架のある丘と処刑台のある丘へと至る道が示されている。前述したように主題が付加された可能性のあるブリューゲルの風景版画においては、主題と添景人物の相関関係を厳密に捉えることは困難であるが、ここで注目すべきは、観る者に選択を喚起する主題が17世紀初頭のアムステルダムの風景画家(注18)へと受け継がれている点である。後継者たちに引き-490 -

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