存在が明示されているのである。この《テイヴォリの景観》〔図11〕の右側には、ブリューゲルの版画《テイヴォリの景観》〔図6A〕の滝の描写が張り合わせたように挿入されている。ここでは旅で得た現実の経験と版画という文化的イメージを通した知覚体験が文字どおり並列されているのである。ここにおいて、フーフナーヘルとブリューゲルが用いた類似モチーフの本質的違いが理解される。すなわち、描かれた景観の信憑性や記録としての側面が重視された都市景観図においては、いわば「実際にそこにいた」という存在証明として画中に画家の刻印を残すことによって、‘‘描写は記録へと転化”されると考えられる(注24)。これに対して、ブリューゲルの《テイヴォリの景観》〔図6〕に見られる、同様のモチーフは〔図6B〕は、自然を「眺め」、「描く」という行為そのものに集中しているのがわかる。その意味ではブリューゲルの人物たちは、自然を観相し、模倣する、ストア派が理想とするべき人間の姿を体現していると捉えることができよう。そしてオルテリウスの世界地図上部右(C)に引用されたキケロのテクストにおいて、引用箇所に続く‘人間はけっして完全な存在ではないが、完全性の一部をなしている’いう言葉通りに、彼らは自らが模倣する自然のまたその一部として自然界に抱合されているのがわかる。その一方で、制作中の画家の存在は、芸術家の技(ARS)による自然の模倣という概念とも結び付けることができる。オルテリウスがブリューゲルの死後に贈った賛辞は、まさに自然に匹敵するブリューゲルの卓越した技を讃えたものであった。また前景にスケッチをする2人の人物〔図8B〕のいる《メルクリウスとプシュケのいる河の風景》〔図8〕の版画(版元フーフナーヘルがブリューゲルの死後入手した素描に基づくと類推される)においても、‘技と才能によって美は不滅である'という銘文が添えられ芸術の力が讃えられているのがわかる。最後に、自然を描く芸術家の姿は、ファン・マンデルや後の北方の著述家たちによって用いられた「自然に即して」という表現を想起させるものでもあることをつけ加えておきたい。合成風景において、「実景」を前にスケッチされた種々の要素は、「構想に基づいて]、精神の中に記憶された世界のイメージに変容される。この過程を考える上で、しばしば想像性の強いマニエリスム的と称されるヘンドリック・ホルツィウスの素描《滝を見る男女》〔図12〕とブリューゲルの〈テイヴォリの景観》〔図6〕とが、共に自然の驚異を中心テーマに据えているという点で類似関係にあることは非常に示唆的であるといえる。ブリューゲルはイタリア旅行中、「アルプスの景観をすべて呑み込み、帰国後カンヴァスにそれを吐き出した」というファン・マンデルの言-492 -
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