鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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⑰ 垂迩画の山水表現に関する研究—春日の景観における山の表現を中心に研究者:早稲田大学大学院文学研究科博士課程梅沢はじめに『花園院哀記」正中二年(1325)の記事に「以春日曼荼羅、図画社頭之気色、以是号曼荼羅、近年毎人所持物也」(注1)とあるように、春日社の社頭の景色を写した図が曼荼羅と称されて貴族の間で流行していたという。山水表現に富んだ宮曼荼羅に関しては、社殿やその周囲の社域の「実景的描写」が注目され、実景に即して描こうとする指向性と礼拝画としての理想化、それを両立させる杜頭浄士観という時代的風潮など、様々な観点から論じられてきた(注2)。一方、山水の実景描写的特質が注目されるなかで、山水表現の定型化についてはしばしば「形式化」と評され、あまりよい評価を与えられてこなかった。実際にはすべての作例の制作について画家が現地に赴いたとは考えにくく、図様の多くが転写によって描かれたと考えられる。むしろ、そのような山水の図像化が特定の土地のイメージの共有化を加速させた点において、意義は大きいと考えられる。本稿では垂迩画にみられる一部の山水モチーフの特化、凝縮化という傾向を「風景の図像化」として捉えてみたい。例えば春日宮曼荼羅には画面の上部に稜線の枠内をパッチワーク状に樹木で埋め尽くされた椀を伏せたような形の山(御蓋山)とその奥に一回り大きくやや暗めの色調で彩色された南北に連なる連峰(春日山)、やや離れて山裾のみ見える金泥彩色された山(若草山)が描かれる。(以下これを春日三山と称す。)この春日三山の表現は実景描写という枠を越え、補陀落山や霊鷲山、蓬莱山のような霊山の記号として機能するまでに至り、さらに狭義の垂迩画には含まれない作例にもこの図像の流入は確認される。垂迩画から発生した山水表現が中世絵画史においてどれだけの裾野を広げていたのか確認をするとともに、この現象から派生するいくつかの問題についても若干の考察を試みたい。1、垂迩画の山水は「写実」を指向したか1)垂迦画を構成する名所絵的要素「十三世紀、鎌倉時代は、リアリズムの傾向が思想や芸術の分野にあらわれ、やまと絵もまた、それと歩調を合わせて新しい展開を見せる。それは、本地垂逃画と呼ばれる、神と仏とが習合する聖地をあらわす絵に典型的に見られる」(注3)という辻-498 -恵

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