鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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2)山王曼荼羅に描かれる唐崎の松惟雄氏の見解に代表されるように、垂迩画は日本の風景画史上、鎌倉時代の新しい「写実的」風景表現として取り上げられてきた。また一方で、成瀬不二雄氏は「鎌倉時代に発達した社寺曼荼羅は、たとえ現実の場所を扱っており、一つ一つの景物が具体的に表され、実景体験に基づく場合があってもそれを必ずしも写実的な風景表現とは言えないだろう。やはり、それは典型化され、理想化された風景と言わざるをえない」(注4)と述べられている。何を以て「写実」、「リアリズム」とするかには個々によって言葉の定義に差があり、この小論では詳しく論じることは控えたいが、鎌倉時代の絵画がしばしば[写実的」と評される一因に、平安時代に流行した屏風に描かれた景物画、名所絵に対し、新傾向の風景画として、垂逃画の山水が取り上げられている側面があるように思われる。たしかに、四季の景物とその景物に相応しい名所とが巧みに組み合わされたやまと絵は実景のすべてを描き尽くさずに特定の場所を暗示する景物のみを描込む知的奥ゆかしさを前提とした表現であるのに対し、垂迩画にみられる風景表現は社地の景観を忠実にあるいは即物的に描写し、さらに縁起や説話などの説明的情報を付加しようとする傾向を持っており、両者の指向性は対極的にも思われる。しかし、垂迩画の山水が名所絵の伝統を全く捨て去ったわけではなく、むしろ名所絵の最物が垂迎画の景観構成に大きく寄与している側面もある。具体的な事例を次に見ていきたい。歌枕としての実績のある霊地の垂迩画の制作にあたっては既に確立されている景物をそのまま導入することがしばしば行われた。山王曼荼羅の画面に空間の連続性に関係なく唐崎の松が描きこまれるのがその一例である。「松」+「唐崎」という名所絵は鎌倉期に新規に成立したもので、琵琶湖に突きだした崎に松の巨木が枝を大きく伸ばし、傍らに小社あるいは鳥居を描くという図様は13世紀末成立の「天狗草子」にみられるが、「唐崎といえば松、しかも大きな一本の松、という連想は、早くも鎌倉時代には定着していたことになる。」といい(注5)、屏風絵自体は13世紀半ばには描かれていたようである。この唐崎の松の図像を画面に取り入れた山王曼荼羅の作例が数点存在する。日吉杜宝塔曼荼羅(個人蔵本)は画面最下部に琵琶湖と唐崎を描き、山王曼荼羅のいくつかの作例(西教寺本/アメリカ・個人蔵本/三千院本)では社殿に見立てて祭神を描く建築空間に琵琶湖に突きだした唐崎の地形と松が不自然に外付けされている。山玉曼荼羅の作例のうち、より実景に即した空間の再現を指向しているという点では春日宮曼荼羅の構図に類似する奈良国立博物館本山王宮曼荼羅図があげら-499 -

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