鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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京、平安京の遷都を予言した場面であるが、『聖徳太子伝暦』等の記述には場面を春日野とする記述は見いだせない。多くの作例においては供を連れた太子が笏で彼方を指し示している姿のみが描かれ、周囲の風景は名もない山水である。しかし、四幅本では、パッチワーク状の御笠山に奥の春日山、金色に彩色された若草山が描かれ、春日三山の図像が流入していることがわかる。湯木美術館本は正安二年(1300)の制作であり、その5年後の制作になるが、この頃には奈良の表象として機能するほどに春日三山図像が広がりを見せていたといえる。なお、四幅本においては画面の反対側には対になるように太子が黒駒に乗って富士山に登る場面が描かれているがこの絵伝を制作した画家はこの二つの山の図像を意識的に対峙させて配置していると考えられる(注10)。なお、四幅本に描かれる春日三山の描写で少し気になる点についてふれておきたい。この場面は秋九月の事跡であり、御蓋山の樹木の多くが紅葉していることに何ら矛盾はないものの、山の端にかかる月は『伝暦』等の記述には見いだせず、垂迩画にみられる春日三山の図像をそのまま踏襲していると考えられる。春日山は湯木美術館本のような起伏が少なく香山のみ強調する塑で描かれているが、香山の北の稜線の谷間に卒塔婆〔図5〕らしきものが描かれている(注11)。春日曼荼羅にもこの谷間部分に樹木や、卒塔婆のような人工物が描かれている作例がある。若草山は金泥彩色され同心円状に三重に描かれている。春日曼荼羅のように画面の端で切れてはいないが、麓には松の木らしき樹木〔図6〕が描かれている。細部のモチーフの特定は今後の課題としたいが、この場面が描かれているのは画面の最上部であり、間近に立っても春日山の卒塔婆や若草山の松に気づくことは困難である。また、太子の生涯を絵解くモチーフとしても考えにくい。いずれも春日曼荼羅等からの図像の流入モチーフとして考えるべきであろう。4、春日権現験記絵巻における春日の山の表現春日三山図像が既に成立していたと考えられる延慶二年(1309)に春日社に奉納された春日権現験記絵巻にみられる春日の山の描写について検討したい。絵巻の中でも最も印象深い場面の一つが巻十九に描かれる薄雪のかかる御蓋山や春日山の山並みである。この景観についてはこれまでにもしばしば言及され、春日曼荼羅における春日三山の表現と近しい表現とされてきた。千野香織氏は「赤や黄や緑の葉の上に白い顔料が重ねられ、また細かい梢の一本一本を白で描きおこしているため、視覚的な美しさは一層際立っている。](注12)としてこの場面の表現を鎌倉時代の山-503 -

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