鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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道具立てとなっているのはいうまでもない。こうした演出も名所絵•四季絵という伝水表現として特徴的な第二形式として分類されている。さらに、第二形式に属する樹木に覆われた丸みのある山の姿は鎌倉時代の「写実主義」と呼ばれる思潮から現実の山水の景観を観察することによって生まれたが、結果として生み出された表現は「写実的」なものではなかった、と分析されている。また、成瀬不二雄氏はこの場面の雪が伝統的に春日という名所と結びつく四季絵的題材であることを指摘された上で、「この場面は伝統的なやまと絵の題材と密接に結びついているばかりでなく、描法も写実的というより象徴的である、特に、遠景のなだらかな雪山は、平安時代以来の雪山の通例の表現を示している。そして、この場面には唐代絵画の雪景山水の遺風も、やはり認められるのである。」とされている(注13)。特に成瀬氏の指摘は本稿の問題とも関連する。この場面は十月二十五日で、早めの雪が降ったとしても不思議はないが、詞書きに雪の記述はみられない。成瀬氏が指摘されているように、この場面では四季絵、名所絵の約束事である「春日山」と「雪」とを結びつけて雪景で描いたと考えることもできる。薄雪によって美しく荘厳された象徴的な風景を挿入することで、絵巻の進行上、次に起こる春日明神の奇瑞の前触れを巧妙に予感させているのである。しかし、山の稜線内を樹木でパッチワーク状に埋め尽くす描法は千野氏が指摘されるように春日三山図像における御薔山にみられるのと同じ技法によって描かれているものの、本稿でみてきたような春日三山の図像をそのまま踏襲しているとはいえない(注14)。この絵巻の作者は春日三山の図像を知りつつも、そのまま使用することを拒んでいたふしがあり、それは他の場面の描写にも見て取れる。それは先の雪景の場面の後に続く神鏡が発見され、人々が家路につく途上、遥かな春日山に互色の瑞雲がたなびく場面である。ここでは色とりどりの樹木によりパッチワーク状に埋められた御蓋山とその暗い単色のなだらかな春日山が描かれていて、いわゆる春日三山図像が用いられているものの、その大部分は霞と瑞雲により隠されている。この場面でもあからさまに既存の図像は用いられていない。諸寺杜の景観図をほぼそのまま取り入れる一遍聖絵の作画のあり方とは実に対照的である。ここには南都絵所によって創出、確立された春日三山の図像をそのまま使用することはせず伝統的なやまと絵の表現を貰こうとする宮廷絵所の絵師・隆兼の作画態度を読みとることもできるかもしれない(注15)。しかし、注目したいのは巻八第七段の描写である。昔、興福寺に住んでいた僧が関東で暮らしながら月を見て春日社のことを偲んでいると、庭先の松に春日明神が示現して託宣するという場面である。僧の庭には紅葉や秋草が描かれ、彼方の椀を伏せた形の良い遠山には半月がかかっている。これらの景物が春日を思い起こさせる-504 -

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