鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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注(1) 『花園院寝記』正中二年十二月二十五日条。(2)行徳真一郎「春日宮曼荼羅図の風景表現国立博物館,1996年,13■42頁(3) 辻惟雄「日本の風景画とリアリティー真景図の成立まで」『描かれた日本の風景』静岡県立美術館,1995年,(4) 成瀬不二雄『日本絵画の風景表現(5)千野香織「志賀唐崎の一つ松」『フィクションとしての絵画りかん社,1991年,69頁(6) 「後鳥羽院哀記』建保二年四月八日条。(7) 佐々木剛三「『一遍上人絵伝』と垂迦曼荼羅」(「『一遍上人絵伝』とその特質J)『神道曼荼羅の図像学一神から人へ』ぺりかん杜,1999年,139■151頁統に加え、春日曼荼羅の流行に伴う春日言山図像の流布による土地のイメージの共有という前提があってこそ生かされているともいえるのではないだろうか。おわりに春日三山の描写を中心に垂迦画の山水図像の流布の状況をみてきた。垂迦画に描かれる山水は、景観の再現という意味での「写実」を指向しながらも、繰り返し描き継がれるうちに余分なものはそぎ落とされて凝縮、図像化される傾向が顕著であった。また一方でそうした霊地の図像形成には前時代から継承した名所絵の景物も大きな役割を担っていたといえる。かつて家永三郎氏の方法を踏まえて千野氏が論証されたように、「鹿」が春日明神の使いとして「春日」という名所と結びつき、やがて「春日野」の景物としても定着し、13世紀には「春日野」の代表的な景物は早春の「若菜摘み」から秋の「鹿Jへと変遷していった(注16)。春日曼荼羅の画面においては、本来秋の景物であるはずの鹿が桜の咲き乱れる春の春日野の景観の中に描かれるため、四季絵の約束からすれば矛盾を含む表現となっている。鹿の事例と同様、春日曼荼羅の流行によって春日三山の図像は揺るぎないものとなり、垂迦画のみならず中世絵画の風景表現にも少なからず影響を与えたと考えられる。13世紀末から14世紀初頭にかけて制作された一遍聖絵、四幅本聖徳太子絵伝、そして春日権現験記絵巻という代表的な作例がそれぞれが違うかたちで垂迩画の山水図像を受容していたのは注目すべき現象である。この時期の絵画史全体の問題とも大きく関わるため今後さらに検討していきたい。原始から幕末まで」中央公論美術出版,1998年-505 -仏性と神性のかたちJ rMUSEUM』541,東京美術史の眼建築史の眼』ペ

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