鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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(8) 表にあげたすべての作例について作品調査を行っていないため、中には写真図版によるものも(13) 注(4)参照。(15) 隆兼は春日権現影向図(藤田美術館)の制作も手がけている。画面上部に春日社の本地仏が描(16) 千野香織「春日の名所絵」『秋山光和博士古稀記念美術史論文集』便利堂,421■461頁,1991年含まれている。今後さらに増補・訂正して、データの精度を高めていくつもりである。(9) 一説には境界を明確にするために山焼きをはじめたともいわれる。(10) 室町時代以降の聖徳太子伝には太子が黒駒に乗って富士山に向かう途上、鹿島に立ち寄って、鹿島神に春日野地に移るように勧めた話が挿入され近世の地誌にも引用されている。本図において、富士山と春日山が対峙して描かれているため興味深い。(11) 関連は不明であるが、香山の竜池からは正安三年(1301)に雨乞いのために参籠した勧進僧・西念の奉納した石塔婆が発見されている。香山には春日大社に属する鳴雷神社が鎮座し、中世以降、請雨信仰の霊場として知られていた。『古事談』第五には室生の竜穴に住む竜は最初猿沢の池に住み、池に釆女が身を投げたために香山に移ったが、そこに死人が捨てられたので室生に移ったと語られている。(12)千野香織「鎌倉時代の山水表現」『国際交流美術史研究会第二回シンポジアムける山水表現について』国際交流美術史研究会,1984年(14) 加藤悦子氏は[隆兼は既存の山のパターンを生かしながら、自然観察によってえられた写実的な表現を加味して、装飾的でありながら実感の伴った造形に成功していると謂える。]と指摘されている。加藤悦子「『春日権現験記絵巻]研究」『美術史」130,1991年かれているものの、場面設定が春日野ではないという事情もあるが、春日三山の図像はここでも用いられていない。背景には春日野の景物として伝統的な秋草が描かれている。-506 -アジアにお

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