鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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fecit et [com] plevit anno 1438. 31 Januaryヨハンネス・ド・エイクがわたしを作り、1438年1月31日に完成させた」という、《泉の聖母子》のそれと極めて類似したイン16世紀の逸名画家による《授乳の聖母》〔図5〕は、支持体が板ではなく両布である3 原作と摸作ンが、いかにもそこに刻み込まれているかのように筆書きされた彩色画枠をも引き写しにした。また、このブリュージュの現存レプリカの元絵とはまた別の原画に基いたにちがいないベルリンの摸作〔図4〕は、当の原画完成後さほど時期を隔てずに制作されたと見なされており、「ALSIXH XAN己の能う限り」「Joh[ann] nes de eyck me スクリプションを刻む彩色画枠が附属する。画家が「創造し」、「作り」、画家によって「完成された」とみずから語る「わたし」とはこの場合、聖顔として祈念行為の主体の眼前にあったキリストの姿なのではなく、人為的な造形物として受容される「キリストの肖像」たる物質的存在だったのではないか。こうした推察は、ひとたびヤン・ファン・エイクの作品から離れたとしても、その方向性が揺るぐものではない。こんにち「ルーヴルの聖母の画家」と渾名されている点で、初期ネーデルラント絵画の中でもことさら稀有な作例である。画布には聖母子の表象のほかに、画枠が描きこまれており、画家自身によるこれのヴァリアント〔図6〕においても同様である。通例のイメージ領域とそれを囲む「木製の」画枠として描画された見立ての枠は、双方の支持体の材質が板ではなく布である限りにおいては、物理的な同一化を果たすことはできない。逆に、この場合その支持体の材質が「描かれた画枠」の表象領域と意味的には同一化していることの証左となり得る。ルーヴルの聖母の画家は、やはり聖母子の姿を表象したのではなく、絵画化というプロセスを経て物質化した聖母子画像そのものを描いたのである。ことほどさように、受容者は顕現した聖母子を祈念の対象にしたというよりも、むしろ画中画として表象された聖母子画像の物質性に熱狂したのである。画家本人、またはエ房の助手もしくは弟子などが、一枚の原画に基きレプリカを制作していたことは周知である。現在では遺失してしまっているヤンの原画から、マルチプルな〈キリストの肖像〉が「生産Jされた際に、当の原画における彩色画枠も摸作範囲に含まれていた旨を確認した。ところで、《泉の聖母子》に相似た関連作品が複数存在していることは、すでに19世紀のうちから知られていた。それらにくわえて、1980年代にシルヴァーによって初めて報告された、寸法にいたるまでほぽ忠実に写したレプリカ〔図7〕は、原画との複数の〈泉の聖母子》-513 -

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