聖母》に代表される、抱いた幼子の頬に自らの唇を優しく寄せようとする聖母の姿を表象した、いわゆる「エレウーサ型」の聖母イコンであったにちがいない。ヤン・ファン・エイクが描いた聖母像は、《泉の聖母子》に先行して少なくとも5点が現存しているが、そのうち1437年の《教会堂の聖母子》〔図9〕を除く作例では、いずれも聖回が硬い衣駿の朱色の外衣を纏い坐しており、室内はそれぞれ厳格な左右対称の構図に則っている。他方、《教会堂の聖母子》と《泉の聖母子》の晩年の2作品にあっては、華奢なマリアが壮麗な青衣を身に着けて立ち、より早い時期の4作品に比べて構図の斜方向への意識が強い。このような対比が浮き彫りにするのは、ヤンが自身の晩年に向けて、厳格な天后のイメージを永遠の親和的情調に満ちたものへと意味的にも様式的にも変容させたことである。そうしたヤンの様式変化を、当時のネーデルラントにおけるエレウーサ型イコンの流行と対照させることもできるであろう。シエナ派の画家による板絵〔図10〕は、聖ルカ本人が描いたという伝承とともに1440年に北方にもたらされた。このイタリア絵画をカンブレーの大聖堂で見た可能性の高いロヒール・ファン・デル・ウェイデンが、その図像形式を借用し〔図11〕、さらにペトウルス・クリストゥスによる類作やデイルク・バウツによるヴァリアントを生んだ。この一連の事例は、《カンブレーの聖母子》という固有の作品がイタリアからアルプスを越えたことと直に関わっている一方で、それが少なくとも1440年より遡らず、またヤンの歿した41年に近接している以上、これが霊感源となって彼のエレウーサ型イコンの翻案を促した形跡は、あるはずもない。しかし、ロヒール以下バウツにいたる流れが、ひとつ〈カンブレーの聖母子》の輸入をもってのみ、ほかに何らの前触れもなく始まったとは考え難く、例えばハービソンが推すように、1438年前後に何らかの機会を捉えたヤンが渡伊した折に多くのイコンを実見したことをもってエレウーサ型イコンヘの傾倒を急激なものとしたことなども相侯って、《カンブレーの聖母》に前後して受容の士壌が醸成されたと仮定するのが自然であろう。改めてダーネンスの所見を敷術し、さらに推察を重ねるなら、ヤンの〈泉の聖骨子》原画とレプリカや、カンブレーに端を発するロヒール=クリストゥス=バウツのリンクによる聖母半身像の、それぞれにおける「イコン的な」複製化のプロセスに注目できるのではなかろうか。ビザンティンのそれが、その画像の本来的機能ゆえに描き手の技量における優劣を秘匿すべく大量に「生産」されたことと、初期ネーデルラント絵画の造形言語による翻訳は、その物質的性格をもって受容されるべくマルティプルに繰り返された。イコンにおける聖母の姿は「描かれた」ものではなく、聖母そ-515 -
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