(No.38)のみしか確認できず、「厳島図」として独立しだ性格を強めてゆく作品群と1709)造営の内裏およびその関係建物の障壁画を前身とする(注2)。きているわけではなく、また寸法データに若干の不備も残っているので、今後もこの一覧の整備に努めてゆくものである。その他遺漏ある点について大方よりのご教示をいただければ幸いである。さて、50件となった厳島図の作例であるが、洛中洛外、京名所、近江名所、富士などとともに、近世の名所図関係ではかなり数的上位にランクされる画題となったといえよう。一覧中の8割弱を占めるのが名所風俗図系作品である(一覧No.l■37)。基本的に厳島と他の名所とのペアで一双を構成する性格をもった作品群である。厳島図一隻のみでの現存が9作例あるが(一覧No.27■35)、これらも元来は一双構成であったはずである。さらに厳島の北面のみを一双に展開する遊楽図としてのヴァリエーション2作例(一覧No.36• 37、ただし37は左隻のみ現存)が含まれる。そしてのこり2割強の作例は、風俗画的要素を希薄化させた名所景物画系作品として画趣が区別される(一覧No.38■50)。襖絵はひとまずおいて屏風の画面形式は、厳島の北面のみを一双に展開する形式と、北面と南面を左・右隻に描き分ける形式とが主流を占めるようになる。他の名所との組合せによる一双は土佐光起による1作例いえるであろう。前者の名所風俗図系作品のうち筆者が知られるものはない。狩野派系統の絵師を予想できる作例が若干あるものの、ほとんどがいわゆる町絵師による作品で占められている。これらの制作は17世紀半ばから18世紀初めをピークに、以降かなりの変容をとげながら近世末にいたるまで細々と命脈を保ってゆくと思われる。一方、後者の名所景物画系作品は、少し遅れる17世紀後半に土佐光起をはじめとする数人の和・漢両系統の画人による作例が見られる。また18世紀に入ると狩野洞春、狩野永叔によるそれぞれ襖絵(一覧No.49• 50)があるが、ともに宝永度(宝永6年/ちなみに、延宝度(延宝2年/1674)内裏・女御御殿、寛文度(寛文2年/1662)内裏・御学問所に、いずれも外記(狩野敦信)による厳島図が描かれていたことがわかる。もっと早い例では元和6年(1620)東福門院入内にそなえて造営された女御御所の御里御所常御殿に、狩野派によるとみられる厳島名所図が描かれていたことがわかる(注3)。17世紀とくに後半における名所景物画系画題としての厳島図の定着ぶりがうかがえる。しかしながらその後の展開としてみた場合、写生派系、文人画系、洋風画系など新しい表現力を備えた画人らによる障屏大画面の作例は見当たらない。17-522 -
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