世紀の名所風俗画系作品の遺例数と比較してみても明らかなように、18世紀以降次第に大画面の画題としての魅力を失っていったといえるであろう。厳島との組合せで一双(もしくは一室)のペアとなる名所を列挙する(括弧内はその作例数)。天橋立(6)、富士・三保松原(4)、和歌浦(11)、近江八景(1)、住吉(1)、吉野(2)、鞍馬(2)、松島(1)の8カ所(28)があげられる。とくに住吉とのペア(一覧No.22)はごく近年知られるところとなった新たな組合せである(注4)。また意外に珍しいといえば、松島との一双が上佐光起による名所景物画系の1作例(一覧No.38)しか知られないことである。厳島図一隻のみで現存の名所風俗図系9作例のうちに、もと松島との一双があった可能性がないわけではないが、松島に関する屏風作例の検索からは、一双のペアがほぼ塩竃に固定されているという特殊性がみえる。松島が他の地方の名所と組合せられた近世の屏風は、論者による把握の限りでは上述の光起によるものと、あとはずっと時代が下がって、狩野永岳による「天橋立・松島図」(個人蔵・六曲一双)が単発的に出てくる以外に見当たらない(注5)。前掲(注l)の久野氏は、厳島、天橋立、松島のうちから二名所を選択する名所図屏風の構成が、17世紀半ばに定立されるいわゆる日本三景という名所観に依拠していると指摘する。一覧には確かに厳島と天橋立の一双が6作例みられるが、上のような松島に関わる状況をふまえると、三景から取り合わせるという意識がどれほど働いているかは疑問である。こうした問題ではむしろ、一覧中、厳島と和歌浦との組合せによる作例の多さが際立っていることに注目される。和歌浦との一双は制作年代が17世紀後半以降へ下降し、仕込絵化が顕著に進んでいる点に特徴がある。町絵師工房による量産がその要因として推測できはするが、手元データでは天橋立と和歌浦の一双は3作例にとどまっており、厳島と和歌浦の組合せの流行(需要)そのものについて、なお考究の必要があるように思われる。和歌浦図は、前述の宝永度造営の内裏障壁画にはみられなくなっているが、延宝度の女御御殿、寛文度の御学問所には厳島図とともに描かれていた。さらに承応度(承の対面所(慶長19年/1614)までさかのぼることができる。よって名所景物画系画題のなかの水景というくくりでは、ほぼ17世紀を通じ、厳島と並んであるいはそれ以上2 一双の名所選択応3年/1654)記録所、寛永度(寛永19年/1642)常御殿、あるいは名古屋城本丸御殿-523 -
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