鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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に、浸透度の高い名所であったことは確かである。また今回は紙幅の関係で他でもほとんどふれえないが、和歌浦との組合わせでは厳島図の類型に大きな特徴がみられる。つまり厳島本社を側面(東側)からの低い俯鰍角度で近接してとらえ、画面左半に寄せて右方に社前の入り江を開く構図がそれである。一覧No.11■15、28〔図1〕、29、またNo.50の襖による構図を加えると計8作例が数えられる。なお、やはり近接した低い視点から東照宮(または和歌天神社)境内をとらえ、画面右半に寄せて左方に社前の入り江を開く和歌浦図の類型も厳島との組合せに限られるものである。ともあれ、これまでのところ、海浜の景勝地を描くこれら一群の名所風俗図のつながりを「渡水」による参詣行楽(舟遊び)にあるとして、とくに厳島には蓬莱山のイメージが仮託されているとする見方が提出され、大方の支持をえているものと考えられる。江戸時代初めの風俗画主題の構造改革という性格をとらえながらの興味深い見解である(注6)。ただ、厳島と一双のペアとされる名所はさらに吉野、鞍馬という山の霊地があり、天橋立以下の海浜グループとは明らかに一線を画する領域を形成している点には注意を要する。吉野、鞍馬ともそれぞれ2作例づつ計4作例あり、その制作年代は元和〜寛永年間におかれ、全作例中もっとも早い時期に集中をみせている。厳島と組合せられる名所がおよそ寛永年間を境に、吉野、鞍馬から前述の海浜グループヘスイッチしてゆく大きな流れがみえる。実際、後述のように、近世の名所風俗図としての厳島図の成立をさかのほってゆく際には、吉野とのカップリングが非常に重要な位置づけをもってくることがわかるが、まず鞍馬との組合せ(一覧No.25• 26)について考えたい。これもすでに厳島・鞍馬で海運・陸運を主題とするセットと解し、南蛮屏風との享受者層(運送業)の重なりが指摘されているのだが(注7)、論者はこの両名所の組合せの背景に、それぞれの名所イメージと強くリンクしている一対の福神、弁財天(厳島の本地)と毘沙門天(鞍馬の本尊)を映し込もうとする風流な趣向を想起する。一双の主題は財福招来にあり、その象徴ともいえる豪壮な町家群と商売繁盛の情景が、とくに一覧No.26の厳島図〔図2〕において顕著に展開され、逸翁美術館本など変形タイプの南蛮屏風との絵画構造、主題的性格の近接が読み取れる。17世紀半ば以降の定型化された厳島図にしばしば描きこまれる南蛮人(あるいは仮装の一行、ごくまれに南蛮船も)は、富裕な商人階層によるこの画題愛好とその所以を暗示する特徴的な3 厳島と鞍馬-524 -

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