J‘卜1攻め(天正15年/1587)から文禄の役(文禄元年/1592)へ向けて、西国方面に活発(1635)に焼失した駿河城が大きく描かれる点に特徴がある。またその厳島図〔図3〕前名護屋城図屏風」(六曲一隻•佐賀県立名護屋城博物館蔵)の景観年代は文禄2年(1593) 4月から8月と推測されている(注9)。この狩野光信筆本が、従来から近世モチーフと思われる(注8)。こうした点と関連づけて考えてみたいのが、厳島と富士三保松原との組合せによる作例である。一覧には計4作例みえるが、同類型の3作例(一覧No.7■ 9)がここでは問題となる。これらの一双画面で気になるのは、先述の「渡水」に関わる舟遊びの行楽的要素がどうも希薄なところである。とくに富士三保松原図のほうは、広い海原もさりながら、明らかに海岸線に沿った「道」を見せようという意図を強く感じさせる描写といえる。つまり海道と街道の組合せで、瀬戸内海と東海道の、陸・海幹線ルートの賑わい、発達ぶりへの礼賛をこめて、やはり何らか流通に関わる商業者階層が自家の繁栄を希求するというような主題性を備えたセットではないのだろうか。なお、一覧No.7は補彩が多く惜しまれるものの、その富士三保松原図は寛永12年は類型的に、一覧No.4 • 5 • 6 • 8 • 9 • 16 • 31 • 32などでくくられる一群の厳島図の相型に近い性格をうかがわせる。斜め前方を見上げるような姿勢がクセの人物描写にも古様がみえ、寛永年間に上がる作例であろう。厳島を描く近世以前の障屏画作例や、存在を記した文献史料はこれまでのところ見出せていないが、『寛政重修諸家譜』巻八十一の記事により、桃山時代の屏風があったことが推測できる。元禄元年(1688)板倉重常によって将軍徳川綱吉に献上された、狩野光信筆、厳島・肥前名護屋図屏風一双がそれである。その模本と考えられる「肥名所風俗図としての厳島図の一祖型と目されているが(注10)、一歩進んで、ここにこの画題の成立が予想される、と言い替えてみたい。注意しておきたいのは、名護屋と厳島というそれぞれの画題、カップリングは、九な軍事活動を展開していた農臣秀吉という人物とゆかりある大きな事蹟と関わって導かれた、実にモニュメンタルな意味合いを帯びていることである。つまり朝鮮半島出兵の前線基地として急ピッチの建設事業で生まれた新興都市名護屋の活気と、渡海して戦闘に赴く豊臣軍の守護、国家の命運を託した神の島の雅やかなたたずまい、との組合わせがこの一双画面の構想と考えられるであろう。海上輸送の重要な中継地になっていた厳島に、この時期秀吉は二度参拝しており、今日も威容4 厳島と名護屋、吉野-525 -
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