鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
535/598

注(1) 久野幸子「厳島・天橋立図屏風について一新出の某家所蔵作品の紹介を中心に一」(『美学美術史研究論集」7号、名古屋大学文学部美学美術史研究室、1989年)における(別表)参照。を伝える大経堂の造営も命じている。では、いま伝わらないその厳島図の図様はいかなるものであったか。それをたどる手がかりをもつのが、吉野と組合わされた一覧No.23の作例である(注11)。表現的なくずれが随所にあらわれており、制作自体は寛永年間まで下るのではないかとみられるが、桃山時代後半あたりの狩野派による先行作例を祖本にもつことを十分にうかがわせる内容がある。端正かつ勇壮な構図の美しさは一覧中の他作例の追随を許さないものであって、原本のもつ初発性のようなものがなんとか伝わってくる。さらに時代が下って写された作例で、同じ系統の類型に属するのが一覧No.30〔図4〕である。かつてNo.23の存在を知らずに、桃山時代あたりの狩野派による先行作を写す復古的性格を指摘したことがある(注12)。いま改めて両本を比較すると、全く相違する人物モチーフがみられるが、人物や樹石の描写形態には親近性が明らかである。ただし残念ながら狩野派でも正系絵師の人物様式とはいいがたく、元の祖本系統を等しくするものとは考えてよいであろうが、両本がよった祖本が光信筆の画面そのものであったかどうか、さらなる考究を要すると思われる。おわりに近年、一覧No.23の作例をめぐって、末期豊臣政権と慶長後半の狩野派正系絵師の関与を想定する主旨の研究発表が行われた(注13)。注目されるのは吉野での花見を描く隻に対する解釈で、細見美術館蔵「吉野花見図」をベースに、豊臣家にとって記念すべき吉野花見という事蹟を回顧し、その意義を継承しようとする秀頼サイドの意思が作画構想の中心をなすという主張である。秀頼の吉野花見は果たして夢想されたのだろうか?その発表において考察の中心とされたのは吉野花見図であったが、ここまで論者が述べてきた厳島図の成立と展開に関わっても重要な問題提起が含まれている。さらにもう1作例の厳島・吉野図(一覧No.24)とともに、その画面全体の詳細について検討を急ぐことを期し、ひとまず本研究の報告を終えておきたい。既述の諸課題についても大方よりのご教示をいただければ幸いである。-526 -

元のページ  ../index.html#535

このブックを見る