鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
540/598

さて、この実範の思想を継承したと考えられるのが、鎌倉初期の南都仏教の復興者の一人として著名な、解脱上人貞慶(1155■1213)である。貞慶は興福寺に入寺して法相教学を学んだ後、遁世して笠置寺に移り、晩年には再び海住山寺に移っている。笠置寺は弥勒信仰の故地として知られた場所であり、また海住山寺も観音霊験寺院を復興したものと考えられる。このように貞慶の場合、弥勒信仰から観音信仰へと個人の信仰が変転してゆくのであるが、晩年の著作からは、極楽往生を願いながらも、自らの罪業の深さを慮ってまず観音浄士へ往生しようという思想がうかがわれ、つまるところ、観音の引摂による極楽往生を希求していた可能性が商い。貞慶は戒律の復興にも努めるが、その師と仰いだのが他ならぬ実範であり、実範より戒律とともに観音来迎の思想も受け継いだものと思われる。このように、観音来迎思想は、平安末の南都浄土教の中に生成したものと考えられ、それがかたちとなって表されたものが、観音来迎図であると考えられるのである。ところで、平安末期から鎌倉初期にかけては、観音以外の諸尊の来迎図も描かれており、興味深い。この内よく知られるのが弥勒来迎図である。『覚禅紗』所収の弥勒来迎図は、「又今来迎之像。寿永三年五月二日。午剋。不慮之外。仏師定源自南京写之所持来也」と記されており(注4)、南都ゆかりの図像であったことがわかる。観音来迎思想が成熟しつつあった平安末に、南都において弥勒来迎図が流布していたというのは多分に示唆的である。また建保三年(1215)に供養された興福寺四恩院十三重塔には、菅家本『諸寺縁起集』に「大明神地下井弥勒等来迎相、四本柱以下絵書之」(注5)とあるように、弥勒菩薩等の来迎図が描かれていたとされ、注目される。『大乗院寺社雑事記』文明十三年(1481)正月四日条には「後戸春日浄土相云々、同面春日御本地来迎相、各座像、五身本之外二弥勒在之」と記され(注6)、これは春日四社に若宮を加えた各社の本地仏の坐形の来迎を描いたものであったらしいことがわかる。こうした、本地仏の来迎を描いたとする文献上の記録は、諸尊の来迎図が本地垂迎説の発展とともに展開したことをうかがわせ、興味深く思われる。一方、根津美術館には、承元三年(1209)の銘文を有する乗雲の釈迦図が伝来しており、注目される。長谷川稔子氏によれば、この画像の思想的背景には、貞慶の説いた釈迦来迎の思想が関与している可能性があり、貞慶周辺でこうした来迎図が成立した可能性の高いことは観音来迎図の成立を考える上で非常に示唆的である(注7)。さらに、鎌倉前期には多数の地蔵来迎図が制作されている。松島健氏は、春H信仰と浄上思想の結びつきが地蔵の独尊来迎像を数多く生み出した要因の一つであるとし-531 -

元のページ  ../index.html#540

このブックを見る