(注8)、地蔵来迎図の流行する背景に春日信仰の存在を指摘している。瀬谷貴之氏は、地蔵来迎図にままみられるV字状の襟を表す内衣を着ける形制を「法服式」と定義づけ、法服式の地蔵菩薩像が貞慶ゆかりの東大寺知足院の地蔵菩薩像を範とした可能性を指摘した(注9)。瀬谷氏によれば、法服式地蔵菩薩は、特に知足院像が生身地蔵として貞慶一門によって説話化・霊験化され、それがさらに叡尊の西大寺派に受け継がれることによって広範に流布したものとし、地蔵来迎図の生成と流布に貞慶および叙尊の関与を指摘している。貞慶が地蔵来迎図の形成に関与したとする指摘は、観音来迎図の形成を考える上でも重要であるといえよう。ところで、観音来迎図の文献上の初例は、奇しくも貞慶の十三回忌供養願文に求めることができる。元仁二年(1224)覚遍によって草された「一切経供養式井祖師上人十三年願文」(弘長三年(1263)・宗性写)には、海住山寺の堂内荘厳に関して、「構本堂之中宝帳之傍北則安観音浄刹之藻績、便是上人之旧功也、南是立霊叙往生之画図、寧非遺弟之新写哉」とあるが(注10)、文明五年(1473)にこれを写したと思われる同寺伝来の本堂壁画には、補陀落山浄土図とともに十一面観音が僧侶の許に来迎する様が描かれており〔図1〕、これが「霊叡往生之画図」に当たると考えられる。つまり、貞慶の十三回忌までには、彼の補陀落往生の願意を受けて十一面観音来迎図が描かれていたことがわかるのである。ただし、海住山寺に現存するこの壁画として描かれた十一面観音来迎図は、阿弥陀二十五菩薩来迎図に倣った図様を示しており、元仁年間までにこうした図様の十一面観音来迎図が成立していたかについては若干の疑問が残る。阿弥陀二十五菩薩来迎図が浄土宗西山派の影響下に成立したとする伊藤信二氏の説に従えば(注11)、こうした構図は寧ろ文明の新造に当たって図様が改変された可能性が考慮されよう。そうした時初期の観音来迎図を考える上で重要と思われるのが、法隆寺金堂西の間安置の阿弥陀如来坐像台座上座正面に描かれた観音来迎図〔図2〕である。貞永元年(1232)に供養された阿弥陀如来坐像の台座上座に描かれたこの図は、十一面観音と思われる菩薩が、左方に描かれた補陀落山から右に広がる大海中に雲に乗って来迎する様が表現されている。初期の観音来迎図はこうした独尊の観音菩薩が、補陀落山から大海中に雲に乗って来迎する様を表す形式であったと考えられよう。先にみたように平安末期から鎌倉初期にかけての南都では諸尊の来迎図が考案され、釈迦来迎・地蔵来迎に関していえば、貞慶周辺で成立した可能性が高い。一方、弥勒来迎図に関しても吉村稔子氏によれば、南都真言系の弥勒上生思想を反映したものであるという。吉村氏は、弥勒来迎図の創図に関しては慎重ながらも、興福寺を中-532 -
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