心とする弥勒信仰の昂まりが大きく関わっていることを述べ、分けても貞慶の関与を示唆している(注12)。そして、このような諸尊の来迎思想を支えたと思われるのが、本地仏が現世に迩を垂れたのが日本の神であるという本地垂迦思想の展開であり、神々が現世に顕れるのと同様、ほとけもこの世に来迎するというように信じられていったのであろうと考えられる。このように藤末の実範に胚胎した観音来迎思想は、貞慶という同心を経て、諸尊来迎の他紀を迎え、観音来迎図に結実していったと考えられるのである。二.観音来迎図の展開前章では、観音来迎図の成立について考察を施した。観音来迎図は平安末期から鎌倉初期にかけて、実範に端を発し、貞慶周辺で成立した可能性が商い。以下に観音来迎図の展開を、中世南都の信仰環境の中に探っていきたい。現在ボストン美術館に伝来する十一面観音来迎図〔図3〕は、13世紀後半の制作と目される作例であるが、この画では画面の上端に四宮の本地・十一面観音を除く春日社の本地仏が立形で描かれており、注目される。前章で本地垂迩説の発展の過程で観音来迎図が成立した可能性を指摘したが、春日四宮の本地仏を描いたと思われるこうした作例の存在は、このような推測をある程度裏付けるものといえよう。また大阪・神宮寺感応院に伝わる十一面観音像は、乗雲して来迎する観音の上部に日輪を描いており、本地仏を表したものとみられている(注13)。神宮寺感応院は、春日社の猿楽に参加していた河内の恩智神社の神宮寺であり、この画は春日四宮の本地仏を描いたものと考えられよう。なおこの画は、画面の下部は南北朝時代の作とみられるものの、上部は損傷を被り室町後期頃に描き改められたものとみられる。しかしながら、この画の伝来を考えれば、春日信仰の中で当初より春日四宮の本地仏として描かれた可能性は高いといえよう。一方、ボストン本とほぼ同一構図の作例に東大寺蔵十一面観音来迎図がある。本図については東大寺周辺に伝来したものとすれば、東大寺二月棠にまつわる観音信仰との関連を指摘する説もあるが、ボストン本との構図の近似を重くみれば、春日四宮の本地仏を描いた可能性も否定できない。いずれにしてもこうした画像の存在は、春日信仰との関わりの中で観音来迎図が展開したことを顕著に示しており、観音来迎図の成立を考える上でも重要と思われる。因みに、十一面観音来迎図の伝来する寺院では、貞慶の止住した海住山寺が興福寺の末寺であり、南都・松尾寺は中世興福寺一乗院の末寺となっていた。また長谷・能-533 -
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