満院は興福寺大乗院の末寺となった長谷寺の子院であり、東大寺をのぞく各寺が興福寺と深い縁で結ばれていたことは、十一面観音来迎図の流布を考える上でも重要であろう。地蔵来迎図が春日信仰を受けて流布したように、十一面観音来迎図も春日信仰の中で大きく展開した可能性が高いと考えられるのである。ところで先にもふれたように、観音来迎図の展開に関しては、東大寺二月堂の小観音に対する信仰の果たした役割も大きいと思われる。東大寺二月棠にて行われる修二会(お水取り)の本尊となる小観音は、天文十四年(1545)成立の『二月棠絵縁起』によれば、難波津に問伽に乗って影向したものと伝えられ(注14)、元南都・眉間寺伝来という東大寺蔵東大寺縁起〔図4〕には、短冊形に「生身十一面尊乗開伽渡海来」と記された傍らに、影向する十一面観音が描かれている。その図様は乗雲ではないものの十一面観音来迎図と同巧であり、二月堂小観音信仰との関わりの中で、観音来迎図の図様が展開した可能性も否めない。なお、東大寺には二月棠の上空に雲に乗って影向した正面向きの十一面観音を描く室町期の二月堂曼荼羅も伝来しており、東大寺二月堂小観音の信仰と観音来迎図の関係の深さを想像させる。以上のように観音来迎図の成立と展開には、春日四宮の本地仏に対する信仰、東大寺□月堂小観音に対する信仰が大きく影響しているものと思われる。加えて、興福寺の有力子院の一つである大乗院を中心とする観音信仰も、大きな影響力をもっていたものと推測される。大乗院は本尊を丈六十一面観音とし(注15)、また『三箇院家指事』によれば「補陀落曼荼羅井観音川三身」も伝来しており(注16)、観音信仰が信仰的基礎になっていたことは容易に想像される。また、大乗院は長谷詣で高名な長谷寺を平安後期には支配下に置いていたが、長谷寺の本尊もまた十一面観音であり、大乗院の本尊・丈六十一面観音と何らかの関係をもって信仰されたことが想像される。このように、興福寺大乗院は南都の観音信仰の展開を考える上で、重要な位置にあると考えられるのである。ところで、先に観音来迎図の初期的な形式を示す図様を台座に有する作例として挙げた法隆寺金棠阿弥陀如来坐像は、『法隆寺別当次第」の記述から菩提山正暦寺の僧が大勧進として造像を進めたことがわかり、鎌倉時代の補作である台座上座もこのとき造られたものと推測される(注17)。菩提山正暦寺も興福寺大乗院の末寺であり、正暦寺の僧の関わった像に観音来迎図が描かれたことは、大乗院の観音信仰を巡る環境を考え合わせると非常に興味深く思われる。そもそも観音来迎図の成立に深く関与していると思われる貞慶は、大乗院と何らかの関係をもっていたと推測され(注18)、貞慶と大乗院という関係の中で観音来迎図が成立し、その後展開したことは十分に見-534 -
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