鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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込まれよう。そのようなときに重要になるのは、興福寺末寺でありかつ貞慶の止住した海住山寺の本堂壁画であり、また貞慶と関わりの深い大乗院の末寺である正暦寺の僧が勧進をしだ法隆寺金堂阿弥陀坐像台座上座の荘厳画の存在といえるのである。最後に観音来迎図の流布について、若干の見通しを示しておきたい。前章で述べたように、観音来迎図は、中世南都の戒律復興の喘矢ともいえる実範周辺に思想的淵源があり、実範の戒律思想を継承した貞慶周辺で開花した可能性が高い。淵源から推測するに、観音来迎図が中世各地で勢力を伸ばした律宗と関係した可能性も指摘できよう。奈良・能満院には長谷寺式観音の図様を取る興味深い十一面観音来迎図〔図5〕が伝わっている。能満院本はボストン本や東大寺本と同様、画面の右上に描かれた補陀落山から左下に十一面観音が来迎する様を表し、四周には観音の三十三応身が描かれている。十一面観音が乗雲ではなく磐石上に立つのは、長谷観音の縁起を意識したものであろう(注19)。能満院本は14世紀の作と考えられ、時代が降るにつれて観音来迎図が多様な観音信仰と結びつき、様々に変容して行くその一端がうかがえる。こうした長谷寺式観音の図様は春H鹿曼荼羅にも取り入れられており、春日鹿曼荼羅の制作事情を考える上でも興味深い。鎌倉後期の作と思われる個人蔵春日鹿曼荼羅〔図6〕は、鹿の背負った神籠上の円鏡中に長谷寺式観音の図様を描いており、注目される。これは春日四宮の本地仏・十一面観音を表したものと考えられるが、ここでは春日信仰と長谷観音の信仰が融合しており、背後に長谷寺を末寺に置く興福寺大乗院の影響をうかがわせる。同様の形式の春日鹿曼荼羅は、鎌倉後期のMOA美術館蔵春日鹿曼荼羅、室町期の静嘉堂文庫美術館蔵春日鹿曼荼羅などの作例が知られており、これらは興福寺大乗院を中心とする信仰世界で制作された可能性が高いといえよう。ところで、西大寺流の律宗寺院では、これまで清涼寺式釈迦如来はじめ文殊菩薩や聖徳太子に関する特徴的な信仰が指摘されているが、ここに長谷観音の信仰を加えることができる。瀬谷貴之氏によれば、中世律宗では受戒の本尊として長谷観音が信仰されたという(注20)。現在西大寺四王堂には、長谷寺式十一面観音の巨像が安置されているが、本像は叡尊晩年の正応二年(1289)、鳥羽院御願十一面堂(京都・白河二条十一面堂)より移安されたものであることが武笠朗氏によって明らかにされており(注21)、その際に長谷寺式に改変された可能性が指摘されている(注22)。西大寺四王堂安置の十一面観音像が受戒の本尊とされたかはともかく、移安に際して長谷寺式観音の像容に改変されたのは、律宗内における長谷観音への信仰を考慮すれば間違いないといえよう。-535 -

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