ぷノ゜因みに、長谷寺の本寺である大乗院は南都の律宗寺院との関係が深く、長谷寺式観注(1)川口陽子「十一面観音来迎図様(2) 川口前掲論文では、①東大寺本、②ボストン美術館本(春日本地仏を描く)、③兵庫・個人本、④『古美術』37号所載本、⑤根津美術館本、⑤東京国立博物館本、⑦ボストン美術館本(②とは別)、⑧海住山寺本、⑨松尾寺本、⑩能満院本を挙げている。このほか春H四宮の本地仏を描いたと思われる⑪大阪・神宮寺感応院本、海外では⑫メトロポリタン美術館本(鎌倉後期)、このように、西大寺流の律宗では、長谷観音が信仰されており、長谷寺式観音を描く観音来迎図や春日鹿曼荼羅の流布に西大寺流律宗が関与した可能性も考慮されよ音を描く春日鹿曼荼羅や観音来迎図の存在から、大乗院を中心とした律宗のネットワークの中で観音来迎図が展開した可能性が見込まれる。大乗院は、南都を代表する律宗寺院である西大寺やその傘下の大安寺、元興寺極楽坊などと関わりが深く、大安寺の子院ともいうべき己心寺や元興寺極楽坊は14世紀には大乗院門跡の墓所となり、門跡の葬送なども行っている(注23)。律宗寺院に伝来したことが確固としてわかる遣例に恵まれない今では、あくまで推測の域を出ないが、観音来迎図が大乗院との関わりの深い南都の律宗寺院間に流布した可能性を提示しておきたい。むすびに以上、観音来迎図の成立と展開について論じてきた。観音来迎図は、元々は実範を中心とする南都浄土教の中に胚胎したものと考えられ、解脱上人貞慶の周辺で成立し、その後春日四宮信仰や二月堂の観音信仰と結びついて展開したものと思われる。観音来迎図は既に川口陽子氏によって指摘されているように、観音霊験寺院に多くが伝来していることは疑いないが、さらにいえば興福寺末寺に伝来するものが多く、共通する信仰的基盤の上に制作されたものとみることができよう。そして、図様の近似もおそらく信仰背景を同じくすることに依るものであろうと推測され、所依経典の一致や図様の定形性もさることながら、寺院間相互の宗教的な繋がりが、このような結果をもたらしたと考えられるのである。本研究では、観音来迎図の展開と流布について、興福寺大乗院の果たした役割の重要性を指摘し、さらに長谷寺式十一面観音の図様との関係を手掛かりに中世律宗との関係を考察したが、可能性の提示に留まった。今後の課題としたい。和58年南都における展開とその背景-536 -」(『美術史研究』20)昭
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