⑮ 雲谷等益の草体雪景山水図について研究者:山口県立美術館普及課主任荏開津通彦雲谷等爾(1615-1671)という雲谷派の三代目の画家が描いた「雪景山水図」(山口県立美術館・図1)という絵がある。草体の山水図に分類される絵だが、焦墨を紙に擦りつけるようにして描かれた、稲妻のように激しく曲折する枯木の表現が眼を惹彼の父である雲谷等益(1591-1644)も、表現はいくぶん穏やかであるものの、同様の景観を含む絵を数点遺している。すなわち、「灌湘八景図屏風」(萩市郷土博物館・図2)、「灌湘八景図屏風」(北野天満宮・図3)、「灌湘八景図屏風」(メトロボリタン美術館・図4)、「雪山行旅図」(益田市立雪舟の郷記念館・図5)などである。等益の父、等顔(1547-1618)にはこのような草体の雪景山水図の作例が知られず、こうした画趣を持つ絵は、等益の創始にかかるものとも推測される。等益というと(あるいは雲谷派というと)、硬質な笙致によって描かれた楷体山水図のイメージが強く、草体の作品はさほど注目されない。本稿では、これら等益の草体雪景山水図に若干の検討を加え、むしろこの分野の作品に、等益の時代の先導的様式への適応が現れていることを主張したい。以下、(1)淵源の問題、(2)雪舟ブーム、(3)等益と海北友松、の順に述べる。淵源の問題すでに指摘されているように、等益の草体雪景山水図には、同時代の画家である狩野山雪(1590-1651)による類似の作例が知られている(注l)。たとえば、「濤湘八景図貼交屏風」(東京国立博物館)の中の「江天暮雪図」(図6)には、草体で描かれた雪景山水の中に枯木が描かれる。等益の作品に見られるような、焦墨を用いた、激しい曲折を繰り返す特徴的な樹幹の描法などはここには見られないものの、雪山を背景に枯木と行旅の人物を描くという道具立ては、等益の草体雪景山水図の諸作に斉しい。山雪には、ほぼ同様の図様を持つ「江天暮雪図」を含む「灌湘八景図貼交屏風」がもう一点存在し、この題材が山雪にとってかなり定形化したものであったことが知られる。共通性が指摘される等益と山雪の草体雪景山水図であるが、当然ながら差異がないわけではない。等益の「雪山行旅図」と山雪の「江天暮雪図」を例にとって比べてみても、雪山と枯木という道具立ては共通するものの、点景として描かれる人物の姿が-540-
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