(1624■44)は、雪舟に対する評価が高まって「雪舟ブーム」が起きつつあった時代等益の草体雪景山水図とこの雪舟の「倣夏珪冬景山水図」とでは、図様の懸隔が大きいものの、ここでは現在では失われた何らかの雪舟画を中間項として、夏珪モデルの雪景山水が等益に伝えられたものと考えておきたい。以上、一見したところ非常に似通っている山雪と等益の草体雪景山水図であるが、山雪両では梁楷の「雪景山水図」が意識的に「引用」されているのに対して、等益画の場合は、夏珪モデルに拠った雪舟画が淵源となっているものと考えられることを述べた。「滋湘八景図屏風」(山口県立美術館)に代表されるような、雪舟の「山水長巻J(毛利博物館)の図様に大きく依拠した楷体の山水図のみならず、草体の雪景山水図においても、等益が雪舟画に拠って作画していたものと想定したわけであるが、彼が「雪舟四代孫」を自称し、雪舟正系であることを自らの画家としてのアイデンテイティとしていたことを想えば、さほど意外でもない。さらに、彼が活躍した寛永年間であったことを考えれば、等益がきわめて積極的に雪舟画由来のモチーフを自作に用いたことも納得されよう。しかし、気になるのはこの「雪舟ブーム」がなぜ起こったのかということである。寛永時代の「雪舟ブーム」「山水長巻」と雲谷軒を拝領し、雪舟画風の正統な継承者であることを画派としての最大のアイデンテイティとしていた雲谷派にとって、画壇あるいは社会における「雪舟」の評価のありようはきわめて重大な問題であったろう。いかに彼らが「雪舟正系」を標榜しようとも、世間が雪舟のことを高く評価しなければ、何の価値もなくなってしまうから。だが、雲谷派にとって幸運なことに、近世初期以降、雪舟の評価はほとんど上がる一方であった。綿田稔氏は、「『雪舟ブーム』が慶長・元和・寛永年間を通じて、大きな文化現象となる」ことを述べておられる。この「雪舟ブーム」の原因にはさまざな要因を考慮しなければならないだろうが、そのひとつは、茶の湯の文化の中で雪舟が高く評価されるようになったこと、茶人たちが雪舟を「偉い画家」と見るようになったことにあるだろう。寛永年間以降における茶の湯の美意識の中で、雪舟画が称揚されるようになる。この茶の湯の美意識を形成するのに力があったのは、江月宗玩に代表される大徳寺の僧たちであった。そして大徳寺僧と密接に交流しながら寛永時代の荼の湯の文化を定着-542 -
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