させた小堀遠州のような茶人たちが雪舟を評価することによって、この時代の「雪舟ブーム」は形成された。なぜ茶人たちは雪舟を好んだのだろうか。谷晃氏によると、荼の湯の世界では「価値の累乗化」、つまり、ひとたび評価を得るとその評価は固定化し、さらに増幅されてゆくという現象が見られるという(注3)。「人気のあるものにさらに人気が集中する」というわけであるが、それでは、その最初の評価はどのようにして与えられたのであろうか。雪舟がその存命時からすでに一定の評価と知名度を得ていたことが、そもそもの初期条件であろうが、その他に考えられるのは、雪舟の絵が、寛永時代において貴重視されるだけの「古さ」があったことと、当時かなりの数の雪舟の絵が遺されて流通していたという事情である。『隔変記」に見られる「古絵」・「古画」という語に着目して、寛永時代における絵画受容のあり方を分析された並木誠士氏によれば、この時代に「古絵」「古画」と呼ばれたのは、『隔費記』の時代よりも百年ないし二百年前の室町時代の中・後期の絵であり、それら室町時代の画家の中ではとくに雪舟と狩野元信が尊重され、さらに雪舟については、「一画家であることを超えてひとつの歴史の尺度となっている」という(注4)。並木氏は、「古」が時間的な意味にとどまらず、「過去のものでしかも規範となるものあるいは評価すべき対象となるものという意味がこめられていたという推測もできる」と述べておられるが、やはり、時間的な隔たりとしての「古」ということが、規範として目されるための要件でもあったのだろう。また、雪舟の絵が、他の室町時代の画家に比べて多く遺されていた、ということも大きかったろう。京都で活躍した画家たちの絵が相次ぐ戦乱によって失われていった中で、山口という地方を主要な制作の場とした雪舟の絵は、例外的に多く残存し、流通していたものと考えられる。一定量以上の数の作品が流通して、ある程度の数の人が雪舟両を入手することが可能であったという事情が、雪舟というブランドの成長のためには必要だったものと思われる。もしかしたら手に入れることができる、という可能性によって人々の中に生じる欲望が、ブランドに意味を与える力となったのではないか。次に、茶の湯の掛物としての古筆における藤原定家とのアナロジーを考えてみたい。近世初期以降、茶の湯の掛物として用いられた古筆の中で、藤原定家は圧倒的な人気を持つに至る。茶道におけるこのような定家人気の理由として、歌人としての定家が-543 -
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