鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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崇拝されていたこととともに、「悪筆」とはっきり認められる定家の策跡が、きわめて個性のはっきりした、分かりやすいものであったことによるという指摘がなされている(注5)。定家の筆跡は、他の誰の筆跡にも似ず、一見してそれと分かる。茶の湯が大衆化した時代に、分かりやすさはブランド・イメージを形成するためのとても重要な要素だったように思う。雪舟の絵についても同様の事情が考えられないだろうか。近年、「逸脱」というキーワードを用いて雪舟画の魅力の本質を説き明かしている山下裕二氏は、かつて伊藤卓治氏が雪舟の書に関して述べた「在り様に委せた自己流の書」「不格好で無骨」「自我的で向ふ意氣の荒い、品の悪さ」などといった評言を引用した後に、「この伊藤の言葉は、雪舟の翰にも、ほとんどあてはまる形容だと、私は思っている」と述べる(注6)。このような、雪舟画に見られるきわめて強い個性の表出が、定家の「悪筆」に似て、ブランド・イメージを形成する際に有利に働いたのではなかったか。これらさまざま要因が絡み合って寛永の「雪舟ブーム」が生じ、さらに「価値の累乗化」によって雪舟の地位は上がり続けた。元禄年間成立の芭蕉の『笈の小文』において、「西行の和歌における、雪舟の画における、宗祇の連歌における、利休の茶における、その貰通するものはーなり」と記された時点で、すでに雪舟は「画聖Jとしての地位をはっきりさせている。ここで「ブーム」は完全に定着していると見てよいだろう。等益と海北友松もう一度等益の絵にもどろう。北野天満宮の「濤湘八景図屏風」の左隻に見られるような草体の雪景山水図が、夏珪モデルに拠ったものと考えられる何らかの雪舟の雪景山水図を淵源として描かれた絵であろうとの推測をさきに述べた。しかし、ここで等益は、屏風という大画面に小画面の図様を適用しているものと考えられるのであり、その余白に富んだ構成は、かなり斬新な画趣を示す。等益の時代は、狩野探幽(1602-1674)が大胆に余白を活かした構成によって、新たな標準画風を作り上げた時代であった。等益の草体雪景山水図に見られる清新な画風は、このような時代のモードによく合致している。寛永2(1625)年に「江月和尚御寺」の障壁画を描き、大源庵、見性庵、清泉寺、碧玉庵、大慈院など大徳寺の多くの障壁画を手がけたと伝えられる等益は、まず間違いなく探幽の絵を見ていただろう。等益と探幽という二人の同時代の画家たちの関係については、綿田稔氏がすでに詳細に論じており(注7)、ここでは、彼らの画風の-544 -

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