鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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先駆者としての海北友松(1533-1615)の存在の意味について考えてみよう。友松の大画面の草体山水図の代表作の一つである、「楼閣山水図屏風J(MOA美術館・図10)の図様は、左右の両隻とも夏珪画巻に由来するものと思われるものであり、雪舟によっても用いられていたモティーフである。入江の風景は雪舟の「伝狩野探幽模雪舟筆山水図巻」(注8)に、船着き場の風景は「山水長巻」(毛利博物館)に見られる。このような、夏珪画巻のモティーフーしかも雪舟画にも見られるもの一を草体に変換し、さらに大画面に拡張するという手法において、友松は等益の先駆者とみなすことができるのではないか。ここで少し、等益の名前について注意してみよう。等益が生前、大徳寺黄梅院に建てた供養碑には、「雲谷雪舟四代友雲等益」と刻される。また、屋代弘賢『輪翁画諏』および朝岡興禎『増訂古畳備考』には、雲谷等哲筆、寛文10(1670)年雄峯慈英賛の等益像が記録されるが、その賛文にも「雲谷雪舟四代友雲等益Jと見える。「友雲」という号は、等益によって款記や印章などで用いられることがなかったとされるが、ある意味をもって付けられた号であろうことは想像に難くない。どんな意味か。実は、海北友松の講は紹益である。海北は氏の名であり、友松は号であろう。「友松」は、講の「益」から、『論語』に由来する「三益友J(松竹梅によって象徴される)という連想により命名されたものと考えられる。友松は若年時、東福寺の喝食であったとされる。毛利家およびその御抱え絵師である等顔、等益と東福寺との密接な関係も指摘されている(注9)。友松の建仁寺における障壁画制作の後ろ盾となった安国寺恵覆(東福寺第224世)は、萩藩主毛利氏の懐刀であった。春屋宗園や江月宗玩などの大徳寺僧は、友松を高く評価し支持していたが、彼らはまた、等顔、等益の二代にわたって雲谷派とつながりを持っていた。等益という名を彼がいつ手に入れたのかは不明であるが、いずれかの大徳寺僧、あるいは安国寺恵瑣のような人物に授かったものである可能性も高い。雲谷等顔の「顔」は、中国元代の画家、顔輝の名に由来すると考えられており、等益の「益」もまた、いずれかの画家の名との由縁を持っていておかしくない。等益の「益」の字は、友松の諒、紹益の「益」の字なのではあるまいか。友松をよく知る人物が、その諒である紹益の「益」の字を、友松にあやかるように等益に与えたとは考えられないだろうか。もしそうならば、等益は友松の画風には特別の注意を払っていただろう。等益の大画面の草体雪景山水図にきわめて斬新な画趣が見られる理由は、海北友松による先駆的な様式を取り入れたことにあったのではないだろうか。_ 545 -

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