鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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2. 2002年度助成① 前田寛治の絵画観の変遷について研究者:鳥取県立博物館学芸員竹氏倫子はじめに前田寛治(1896■1930)は、美術団体「一九三0年協会」の設立者の一人であり、また、ギュスターヴ・クールベの日本への紹介者としても知られる洋画家である。典主義的な静謡さを湛える作品から、フォーヴヘの近接も感じられる破調の作品まで、その仕事は複層的な変遷を重ね、密度の商い展開を示している。ただでさえ「どこか茫洋とした大味な、というか大づかみなところがあって、すぐにはその良さをつかみにくい」(注1)前田の作品は、その複雑な変遷のために、尚更わかりにくさを増していると言ってもいい。ところで、前田は、制作活動と並行して日記や随筆、小論等の多くの文章を執筆している。そうすることにより、自分の制作態度を内省し、進むべき仕事の方向や、画家としての立ち位置を常に確認しようとしていたのだろう。それらの文章を読んでいくと、彼が、自分なりの絵画観を、作品制作と理論構築の双方によって確立しようと企図していたことがよくわかる。どのような表現者であれ、その作品スタイルの根底には独自の芸術観が存在するものだが、前田の場合は特に、それをあえて言葉でも表現し、客観的な理論として確かなものにしようとの意志が顕著であったようである。また彼は、キリスト教や共産主義思想の影響を強く受けており、それが作品の主題選択等に強く反映されていたことも広く知られる事実である。以上のような理由から、前田の思想的な変遷、すなわち絵画観の変遷を確実に押さえておくことが作品理解のためには必須だと思われるが、それは従来より、画家の人間的成長の過程として評伝的に扱われることが多かった。そこで本稿では、先行研究を参照しながら、画家の自筆ノートや著書などの文献資料に注目することにより、前田の思想的な推移を改めて辿ってみたいと考える。それにより、前田の画業の筋道と、日本近代洋画史における彼の独自性を、よりクリアにつかむことができると思われるからである。なお、まだ調査が行き届いていない資料もあるために、本稿は、現時点での整理結果であることをあらかじめお断りしておきたい。33歳で病没した前田の、画家としての本格的な活動期間は非常に短い。しかし、古-550 -

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