鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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1-3.キリスト教と絵画日曜の講演ハ賓にある意味の待望にさへなった。丁度赤兒が母の乳房を欲する様だと自身思って居る」この文章の2ページ前にも、「一九二二、二、十六」の日付けの後にほぼ同様の記述があるので、それらに従うと、前田は大正8年(1919)2月16日に、神田基督教青年会館で行われた内村鑑三の講演「イエスの終末観」を聞いていることになる。このとき、前田は22歳である。無教会主義を謳う内村は当時、独自の聖書解釈によりキリスト再臨説を説き、各地で講演会を開催していた。なぜ前田が内村の講演を聞きに行ったのかについては推測の域を出ないが、彼はその感動をきっかけに、キリスト教に強く惹かれることになる。故郷の自然をこよなく愛していたとされる前田は、自然の理を通じて神を感じよ、と説く内村の思想にも共感を抱きやすかったのだろう(注7)。受洗には至らなかったにせよ、強く傾倒していた様子は、同年9月に兜屋書堂の「兜屋主催洋画展覧会」に《来世と教会の人々》と題された2点の作品を発表していることや、美校同級生の発言からも伺える(注8)。また、ノートには、大正10年(1921)の冬に長崎を旅行した際に、浦上天主堂の建設に尽力中のエミール・ラゲ神父と面会した時の感激や、翌年2月に内村の自宅を訪れた時の印象なども記されている。ところで、前述のノートには、前田の画業初期における絵画観を伺うことのできる文章が散見される。セザンヌ、ゴッホを賞賛する言葉が頻出しているところに、前田が『白樺』世代の画学生であったことを想起させられるが、それにも増して、宗教と美術を結びつけて論じた文章が随所に現れる点に注目される。「宗教ハアートを活氣づける、アーチストを活氣づける」「誰も自分の藝術に干渉し得るとは思〔は〕ない、けれども唯一人衷心から干渉し得る者がある、誰も自分に関係し得るとは思はない、けれども誰〔唯?〕一人ある、そして凡ての世界の人はその子供である」「美的洸惚ハ善、快築でハない聖なる喜び/肉を離れて精神、即チ智より情操、故に宗教的喜悦と相似」「所謂宗教藝術と間違ふなかれ」ここに見られるのは、宗教を背景とした絵画論の萌芽である。明言されているように、彼は宗教絵画を描くことを目的としているのではない。また、彼は長崎旅行の帰途に倉敷に寄り、大原コレクションの展観を見て強い印象を受ける。その日に書いた-552 -

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