鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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2.フランス留学時代と思われるものが次の言葉である。信會は詩である、詩がなくていヽ斎會は出来ない、大原展覧会をみて二つのものに分ることが出来る/詩と、風俗と、Iそして詩を/力だ」「信仰的力/チャームにはげまされて出来る詩/が力(僕)だ、/信仰が力だ」ここに、前田の画業初期のスタンスがはっきり示されていると言えよう。彼にとって信仰は制作の原動力であり、絵とは、作家胸中の想念を存分に吐露するものであった。この頃に描いたとされるスケッチの横に、彼は次のような印象的な言葉を記している。「かけかけ、あ、何と云ふ喜びだ感謝!」(注9)東京美術学校を卒業した前田は、大正11年(1922)2月から大正14年(1925)6月まで、絵画研究のためにフランスに留学する。彼にとってこの留学は、学生時代に抱いていた絵画観を壊され、新たな価値観を用意させられる体験となった。この体験は、ヴラマンクに「このアカデミック!」と罵倒された佐伯祐三の例があるように、渡仏した多くの画学生に共通するものだったと考えてよい。渡仏前の前田は、絵画作品とは感情の逍りに任せて制作するものであり、結果的に作家の人格が投影されるものとして捉えていた。しかし、留学先で数々の作品を実見した彼は、絵画とは緻密な思考によって造形されるものであること、また、西洋絵画には「実在感」という概念が存在していることなどに気付く。これらの思考の推移については、帰朝歓迎会のための有名な挨拶原稿に詳しい(注10)。この原稿については後述する。さて、留学当初の前田は、セザンヌの郷里エクス・アン・プロヴァンス訪問をはじめ、オーヴェールのヴラマンクに面会したり、ゴッホの墓参りをしたりするなど、いわば聖地巡りのような行動を取っていた。しかし、パリでの生活に慣れるに従い、次第にキリスト教との乖離を感じ始める。祈ることをしなくなり、生活の規律も緩くなり、美校からの友人でキリスト者の石河光哉とも信仰上の問題で決裂してしまう。そして、やがて自分自身を「マテリアリスト(唯物論者)」と称するようになり、マルクス全集を購入して共産主義の研究を始める。キリスト教徒から唯物論者へ、一見したところ余りにも極端に思える転身である。留学初期から中期にかけて前田が迎えた精神的な転機について、小泉淳ーは「三つ2 -1.キリスト教から唯物論へ-553 -

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